[コメント] 天空の城ラピュタ(1986/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「どこが面白いのか」分らない作品は難かしい。作画・音楽・演出とも、本当に素晴しいだけになおさら・・・
夜の雲の中、少女がMYSTの本の様に音もなく落ちてゆく。静かにタイトルが入り、予定調和的に主人公が偶然にも少女を受け止める。ここまでテンションは高かった。しかし次のセリフ「親方、(後略)」の「か」の辺りから一気に睡魔が降臨!そして眠気はラピュタ到着のその日まで続く(ひどい観客だなあ)
何度見てもこうなのだ。自分でも何故か分らない。もちろん状況説明のセリフが大事なことくらい判ってる。敢えて言えば、「これはこういう登場人物なんですよ」という登場人物が、初期設定通りの動作をしているのが退屈なのかもしれない。
これはゴム紐ですよ→さあ、どうなるでしょう!?→何と、ゴム紐は伸びました!
ひどい例だがこんな感じだ。キャラクターは非常に丁寧に描かれている。特におばばと少女の表情は実物の人間以上かもしれない。でも、その最高の技術と職人魂がありきたりの人物描写に注ぎ込まれるのは哀しい。これを初期設定の通りの自由落下を示すレールの上の球体の様に感じてしまう自分はきっと「わかっちゃいない」のだろう。
誰も存在さえ信じてくれなかったラピュタへの道行で語り合うバズーと少女。それを聞いているおばばがウンウンとわざわざ頷いて観客に見せているのがイヤだ。そんな表意文字みたいに明示しなくっても判るよって思う。そんなに観客の感じる力を信じられないのか!?酷い物言いだがシラけるのだ。ここはおばばは黙って暖かさと若干の不安を込めた目で漠然と空を眺めているだけでも、十分その心が伝わるのではないか。
人物が道具になりきってる。例えば、有名な「人が燃えないゴミの日」のシーン。ムスカはああいう人だから「あははー」と笑い、シーダはああいう人だからキッと彼を見返す、当たり前だ。
ここで例えば、ムスカが落ちる小さな鳥の巣と雛を(人間は無視で)思わず助けてしまうみたいな意味不明な「発見」があったらどうだろう。また例えば、バカ笑いする自分を非難するシーダに、「でもシーダ、君も少し笑ってるよ」とムスカが言ったらどうだろう?もちろんその時のシーダは後姿で表情は見えない演出だ。水溜りにチラッと覗く自分の表情を思わずジャバジャバッって水を掻いて隠す シーダとか、そういう演出があればラストに泣く泣くラピュタを人間の手から開放する根拠もよりはっきりする筈なのに・・・
ここまで悪口を言っていながらも結局何回も見て、星も4つは当然つける。これは勝手な思い入れだが、あの巨大ロボや「ラピュタそのもの」に表情を感じるのだ。例えばラストでラピュタを離れる二人に、ラピュタは「さようなら」と言っている様に見えた(???)。「これでよかったんだよ」と微笑みかけているいうか何と言うか、あの俯瞰脱出シーン(というのか?)はそれだけの素晴らしい映像だった。
きっと役付けが最初からミエミエの事物より、巨大ロボやラピュタの方に興味がいったのだと思う。目がやられてしまったのかもしれないが、ラピュタと共に成層圏に昇っていっただろうムスカも、ある意味幸せだったのかも!?
いやホント我ながら判ってないとは思うけど。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。