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[コメント] 評決のとき(1996/米)

アメリカ映画に多くある裁判モノの中でも、特にこの作品では陪審制度の良し悪しについて、深く考えさせられた。
ヤスミン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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裁判は事実の真偽、善悪を明らかにするための制度ではないのか。特にアメリカの陪審制に注目した裁判映画を見ると、弁護士の腕(いかにこちら側に有利な評決を出す可能性の高い陪審員を選ぶか、に始まり、いかに巧みな弁論で陪審を味方に付けるか、に終わる)にかかっている。金持ちは有能な弁護士を得て裁判を有利に進めることが出来る。

この映画のように、義侠心に駆られた弁護士の活躍で、弱者が圧倒的な社会的強者(政治家だったり、大企業だったり)に陪審裁判で勝つ、という設定の映画は多い。しかしこの映画の特徴は、客観的には無実とは言えない黒人を無罪にするために、若い弁護士が用いた論法は、差別を逆手に取ることだった点である。「娘をレイプされた白人の父親は、犯人の黒人を殺しても罪を問えない」という差別的な陪審員の心理を一度肯定した上で、「では、娘をレイプされた黒人の父親にも、犯人の白人を殺したために罪を問えないだろう?」と問いかけた。

このようなプロセスが許容されるのであれば、陪審制度には二重の意味で不信感を禁じ得ない。陪審員は偏見を持って評決を下している。そして、そんな陪審員を心理的に操作できる弁護士が勝つ。そんな裁判制度に正義はあるのか?

(評価:★4)

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