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[コメント] 燃えつきた地図(1968/日)

映画のどの部分を見ても一瞬で”素晴らしい”映画であることがわかる。芸術であることは、その映画のどの部分を切り取っても芸術として認めることができる。昔の町並み、新宿なども美しい。
chokobo

勅使河原流とは”名”であって、代々受け継がれてきたものだ。これに(見えないように)反駁することが監督のささやかな抵抗だったのではなかろうか。

安部公房がそうだ。カフカそのもの。固有名詞とか名前とか人、人格、戸籍、などといったいわゆる自分を証明するもの、名札とか名詞とか免許証とか、そういうものを一切否定しよう、一切ないものとしたら、人間はどういう行動をとるか。特に日本人はどのような行動に出るか、と考えると様々な創造力がはたらくのだ。

この映画のタイトル『燃えつきた地図』ですら、この映画とは全く無縁の全く抽象的なものであって、映画の内容と地図が影響し、影響されあうこともない。

男(勝新太郎)の職業ですら途中失職してしまう有様で、まったくアテにならない。ましてやこの映画で固有名詞として認識できるのは渥美清扮する”田代”という男だけだ。

勅使河原監督が自分の置かれている流派や名前などを意識していたことと、映画の中で武満徹安部公房らと遭遇したことが、この個人に対する否定というものと直結することになったことは想像に難くない。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)TOMIMORI[*]

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