コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 乱歩地獄(2005/日)

佐藤寿保監督の『芋虫』だけを目当てに観に行って、それが期待に見合う出来だったので、採点は5、レビューはこれを中心に書くこととし、他三篇に付いては一言ずつ書き添えようと思う。
町田

芋虫』は、これは乱歩ファンには余りにも有名な話だが、発表当時、批評家達からは散々に貶され、コミュニスト達には稀有なる反戦映画として称揚されるという、二重の誤解に苦しめられた作品である。乱歩は、戦後、児童文学に転向したことで、より多くの読者に読まれ、それに付随して多くの映画化がなされたわけであるが、その9割の映画人たちは乱歩文学の本質については無関心、或いは無頓着で、殆ど場合において乱歩イズムを、単なる筋書か、舞台装置としてしか扱ってこなかった。乱歩文学の稀有なる唯美性、それは直接読者の神経中枢に訴えかけるものだ、を正しく理解し再現していた作家は、石井輝男増村保造のただ二人だけだった。

佐藤寿保監督は、作家である。とにかく作家である。今更ピンク四天王などと云う古びた呼称で以って彼を紹介するほど、私は親切ではない、ただ私の魂が、その名に、作家性に、蟲が街灯に惹かれるように靡いたという、それだけである。

監督はまず『芋虫』から、画面から、国籍と時代性を取り外すことから始める。荒涼とした廃墟と砂漠、乱歩を描くのには、これだけあれば充分だと云うことを彼は知悉していた。思えば増村の『盲獣』も、文明から隔絶された密室だけを舞台としていた。大正モダニズムや、サーカス的情景を描きたいのなら、何も乱歩たる必要は無く、芋虫を芋虫たらしめた(と推察された)戦争や、大震災も確かにあったろう、しかし、どこか他の国の出来事に過ぎぬのである。

監督は次に人物たちに記憶を与えた。それは登場人物の共有する秘密の小道具として機能し、その関係性、共通の嗜好に対する思い入れを、説得力のあるものに変える。具体的に云うと、それは「菰田(こもだ)」の思い出である。菰田は、石井輝男の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の二大ベースの一つでもある、「パノラマ島奇談」に登場する誇大妄想狂である。菰田は、本名を人見京介と云い、元は東京で三文空想小説を書いていた。人見は、大学時代の学友で大資本家の御曹司・菰田源三郎と瓜二つの容姿を利用し、これに巧く成り代り、伊勢の孤島に念願であった人工の理想郷を築き上げた。この楽園では、ひがな全裸の美女や美男が踊り狂い、森や高原や小川が視覚トリックを使って再現され、水中トンネルや蜘蛛を模った花火がそれら人口の自然を彩っていた。

芋虫の妻を菰田の姪に、松田龍平演じる「怪人二十面相」を彼の秘密の書生に任じたことは、これまでどの乱歩作家も遣ってこなかった快挙である。これが単に面白く、ファンの心をくすぐるアイデアであると言うばかりでなく、先も述べたとおり、人物が犯罪的唯美主義を邁進するに当っての精神的支柱として機能しているのだから、私は恐れ入るのである。

そしてその像が一切描かない、限定されないことで、菰田は、時子が慕い二十面相が敬愛し明智が共感するところの、菰田は、原作者・乱歩その人と、分かちがたい、いやほぼ完全な一体化を見せるのである。菰田は乱歩である。二十面相はその弟子なのだと。

佐藤監督X夢野史郎のコンビは、激愛(=時子)と浪漫(=二十面相)、乱歩に内在する相反する二つの志向を、同じフィルムの中で巧みに並記することに成功した。これは観るべき乱歩映画である。いや見落とすことが赦されぬ乱歩映画であろう。

***************

竹内スグル『火星の運河』;;割といい。全編の最初に置かれ、映写事故を思わせることで、映画のインスタレーション足り得ている。

実相寺昭雄『鏡地獄』;;ダメ。鏡文字も視覚効果も五月蝿すぎの、不幸な合わせ鏡である。成宮君はいい。

カネコアツシ『』;;コーヒーのCFが如き舞台装置は極めて映画的ではあるのだが、あまり強烈過ぎて僅かに漏れ出づるべき腐臭さえも拭い去ってしまった。また主人公が至るネクロマンシズムに、潔癖症などと云う柔な科学的根拠は決定的に不要。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。