[コメント] 日本の夜と霧(1960/日)
大島作品には「参加すること」が求められているのである。当事者意識無しに画面を眺めるだけではアラ以外の何者も見えてこないのである。これ程までに力強く論理的で、しかもミステリ的興奮に満ち溢れた作品は後にも先にも無いのでは。
本作は安保条約が国会で承認された60年6月19日から4月の経過を待たずして発表された促成映画である。大島が「リテイク無しの一発撮り」を敢行してまで本作完成を急いだのが、単に話題性を追求したためではなく、その時節のナマの空気を捉える為であったろうことは彼のファンでも何でも無い俺にも容易に推察出来る。いや映画を観れば否でも判る。混沌とした汗と熱気が画面の隅々にまで満ち溢れているからだ。
**** 以下「議論論」 ****
ディベートの意義は相互批判することによってそれぞれの真理を高度化する為にあるのであって、参加者全員の統一的見解を導き出す為のものではないのだと常日頃から思っている。
だからディベートに於いて自己から遊離した正論や一般論、書物からの受け売りを次々に並べ立て戦わせても全く無意味、得るものは皆無なのである。得られたとしても云うだけ云った満足感、オナニーにも似た恍惚感くらいなものである。勿論オナニーは悪いことでもなんでもない。しかしその「汁」を他人に引っ掛けることは「傷害罪」に相当する。この映画に登場する日和見党員ナカムラの如き分裂野郎は「人殺し」といって何の差し支えないだろう。
さて、匿名性の高いネット掲示版上で闘わされる議論ほど不毛なものはないと思われる。俺はネットでの議論に金輪際応じるつもりは無いし云いたいことがあったら「示唆」を含んだ「ひとりごと」に留めることにしている。俺がネットに求めているのは情報の受信と送信、これだけだけである。
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