[コメント] チャップリンの殺人狂時代(1947/米)
ベルトルト・ブレヒトの名言はこうも置き換えられる。「チャップリンのいない時代は不幸だが、チャップリン映画が必要とされる時代はもっと不幸だ。」 しかし俺が憧れるのはむしろ「真似できるもんならして見やがれ」と言わんばかりのそのノースタントな生き様。
17年ぶりにニュープリントで復活したチャップリン映画が世界中で好評を博している21世紀初頭というのは、皮肉なことだが、やはりとてつもなく病んだ不幸な時代なのだろう。
米芸能界にも内在したナチ・シンパの動向を他所に『独裁者』を撮り上げ、朝鮮戦争を控えた政府の怒りを省みず本作を公開したチャーリーの勇気というのは、今日では、不甲斐無い現代映画人への当て付けの意味も含めて、至るところで賞賛されているわけだが、本当のところはどうなのだろう?そのクソ度胸の根拠とは?
それは「もう黙っちゃいられない」といったヒューマニズムの発露、というよりは、中期の傑作『サーカス』で見せたあの、ノ−スタントの「綱渡り」の延長線上に存在するものと考えたほうが適当なのではないだろうか?
そしてそれはけっして「商魂」などと云って唾棄されるべきものではない。「他人のやらないこと、出来ないことをやってオマンマを食っていく」という心底ピュアーな芸人魂であり、貫ぬき通された初心であり、身一つでアメリカンドリームを掴み取った男の人生哲学、或いは”性”なのだ。
嗚呼、コレってむちゃくちゃカッコ良くねぇ?
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (5 人) | [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。