[コメント] いま、会いにゆきます(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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何だか最近「死」(死者とは言わないが)を、もてあそんだような映画が多くて気が滅入る。
「死」は絶対的な喪失であって愛する人を喪った者は、永遠にその欠落感を背負って生き続けるものだと思う。巧と祐司もまた、一生「死」のイメージを心の底に秘めて生き続けなければならないのだし、それは特別なことでも何でもなく万人に共通する宿命なのだ。
映画は、残された者が死者を思い出す行為に似ている。生前どんなに愛した者であっても、時が経つにつれて死者の記憶は薄れ、声や顔すらもおぼろげになる。やがて記憶は、時系列的な流れを断ち切られた映画のシーンやカットのように、イメージの断片としてバラバラに分断されてしまう。悲しいが、それが現実であり「死」を受け入れるということだ。
一方で映画は、死者を蘇生させ残された者と共に物語をつむぐことができる。広義のファンタジー映画がそれにあたる。私は死者を蘇らせるのであれば、たとえそれがどんな映画であっても誠意が必要だと思う。それは、死者に対しては当然だが残された者にこそ向けられるべきものだと思っている。なぜなら、残された者こそ永遠に逝った者の思いの中で、まさに「今」を生きているからだ。
本作の巧(中村獅童)と祐司(武井証)父子の前に現れた澪(竹内結子)に、どんな意味があったのだろうか。父子に対して死者を蘇らせなければならないほどの(例えタイムスリップだとしても父子にとっては同じことだ)メッセージがあっただろうか。巧と澪の純愛を語るのに、また母の死への息子の自責を解消するために、それは必然だったのだろうか。
私は父子が蘇生した母に出合ってからしばらく、これは母親に酷似した記憶喪失の女に暗示をかけ、自分達もその暗示の中へと埋没していく父と子の物語だと本気で思い込んで見ていた。まだ、その方が「死」への映画的誠意とメッセージを託した物語が期待できたからだ。
しかし、その思いはやがて裏切られ、本作の死と蘇生は、母子や恋人同士の純愛に対してより多くの「涙」を流させるための仕掛けでしかないことを露呈する。その不誠実さに落胆することはあれ、涙腺がゆるいことでは人語に落ちない私ですら、2時間の間に一滴の涙も流すことはなかった。
最後になったが、これだけ不満を述べておきながらこの点数を付けたのは私の大嫌いな竹内結子がまったく気にならなかった土井裕泰監督の無難な演出ぶりに多少のポジティブさを感じたからだ。私がぐずぐずと書いてきた問題はきっと原作の方ににあるのだろう。今後は土井裕泰監督に、したたかに原作を凌駕する作品を期待する。
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