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[コメント] TAKESHIS’(2005/日)

ナルシシズムとペシミズムがせめぎ合う痛々しい映画だ。自己の傷口を、ここまで人目にさらしてでも映画は作られなければならないのだろうか。北野武という人は、本当は映画など撮らない方が良かったのではないかとさえ思う。
ぽんしゅう

子供のころいた、いわゆるガキ大将を思い出してみるといい。彼らは概して寂しがり屋で、甘えん坊であった。彼らは、持てる腕力や知恵という才能をフルに活用してヒエラルキーの頂点にとどまろうとしていた。頂点は、居心地の良さとともに常に転落の不安がつきまとうポジションだ。一旦、頂点を極めた少年が、自分でも気づかぬうちにその地位を奪われ、仲間たちの輪から一人はずれて広場にたたずむ姿は人の目にも痛々しい。まして、当事者たる少年にとって、そんな状況に陥った自分の姿を想像するときに押し寄せてくる絶望感は耐え難いものだろう。

映画作家が自作に反復して「あるもの」を取り込む例はいくらでもある。水、火、鏡、森などポピュラーなものから、たとえばF・フェリーニの異臭を放ちそうな異物、C・イーストウッドの高所からの目、神代辰巳の回転運動や反復語といったオリジナル性を放つものまで挙げだしたらきりがない。北野武の場合は「銃撃」、「タップダンス」、「破壊的暴力と血」、「もの言いたげな沈黙」、「海を見つめる男」、そして「ベタで下品なギャグ」だ。前者と後者には決定的な違いがある。前者は作家の視点としての要素だが、北野のそれは作家の好みとして事象なのだ。要素は作品を支配することはないが、事象は、ましてその反復は作品そのものになってしまう。

そのミスを犯してまで、映画を撮らなければならないというこだわりは、強引にも君臨し続けることでしか自分の存在を確認できないガキ大将の不安に似ている。そこに露呈するナルシシズムとペシミズムは、北野武という不器用な映画作家にしか体現できない個性なのだ。この、監督らしくない、あるいは監督に向いていない男が、映画を撮るという無謀だがとめられない行為が生む痛みが本作からは切実に伝わってくる。だから私は、この作品をむげに否定できない。

北野武は、いつか映画を撮ることを中止してしまうような気がしてならない。その幕が、考えられる方法の中で最も悪い手段によって降ろされるのではないか不安だ。今年(2007年)のカンヌ映画祭で、おもちゃのマゲヅラを被ってレッドカーペットに立つ北野の姿を見ていっそうその思いが強くなった。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)青山実花[*] peacefullife bravoking 林田乃丞[*] sawa:38[*]

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