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[コメント] ヨコハマメリー(2005/日)

冒頭から涙が止まらなくなった。哀れみや悲しみの涙ではない。郷愁や共感とも違う不思議な涙。メリーと、元次郎と、ヨコハマの街を流れ去った数十年の時間。人が戦後と呼ぶその時間の中で、生まれ、育った私たちは、まぎれもなくメリーの子であり孫なのだ。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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「ふるい」にかけられ、次々と網の目を通り抜け減っていく砂の中から、徐々に姿を見せるゴツゴツとした石粒。わずかな差で網の目をくぐることができなかったもの、初めからくぐり抜けることを許されなかったもの。「ふるい」の中に残された規格はずれの異物たちだ。異物は、ときに目障りなぐらい目立つ。

かつての街娼メリーが、舞台に立つ歌手に花束を手渡す姿を目にして、思わず会場から湧き起こる拍手。私は、その拍手に涙が止まらなくなった。そして、かつて男娼だったその歌手・永登元次郎が歌うシャンソンに涙する聴衆たち。観客たちは知っているのだ。メリーと元次郎というヨコハマの異物が、自分たちの分身であることを。

メリーが横須賀で客をとり始めた50年前、そして横浜に現れた45年前、誰もが貧しく苦しかった時代。そんな時代の網の目を、首尾よくくぐりぬけた者たちの視界の中にときおり異物として現れるメリー。変わり行く街の風景に、いつまでも馴染むことなくたたずみ続ける白塗りの老婆。状況や立場が、ひとつ違っていれば、それは自分の今の姿だったかもしれないことを、あの時代を共有した者は知っているのだ。

作中、作家の山崎洋子は、娼婦たちが処置に困り外人墓地にひっそりと捨てた何百もの乳児の遺体を「メリーさんの子供たち」と呼んでいた。それは違うと思う。混血児たちだけが「メリーさんの子供たち」なのではない。戦後生まれの私たちもまた間違いなくメリーの子供であり孫なのだ。そしてまた、捨て去られた混血児が私たちだったかもしれないのだ。

時間は等しく流れ、時代は全ての人によって共有される。ただ、ほんの少し状況が違っただけで、時間は人の立場を変え、時代は境遇に差をもたらすのだ。メリーの姿は、人々の心の奥に眠っている時間の記憶を揺さぶる。だから、花束を手渡すメリーの姿を見て人々は突発的に拍手を送る衝動にかられ、私は胸を打たれたのだ。

中村高寛監督の、好奇心に端を発したと思われる横浜のアウトロー世界を垣間見ながらの異物をめぐる旅は、奇をてらわない誠実な取材姿勢と的確で巧みな構成力で「街と人」という軸を、戦後の60年という時間の中に突き通すことに成功している。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)寒山拾得[*] DSCH[*] づん[*]

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