[コメント] 時をかける少女(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
怒り、悲しみ、絶望のすえの暴走。想い、歓喜、希望に満ち溢れた快走。今まで映画の中でいったいどれだけの疾走シーンが描かれてきただろう。かすかな希望を信じて、一心に人が駆ける姿は観る者の心を打つ。
アニメーション映画の疾走シーンには演出家の力量が端的に現れる。実写のように忠実に人物を動かしたいという願望と、実写では為しえない非現実性(アニミズム的神秘性が生む快楽)をそれに加味するという試みこそがアニメーションだからだ。例えば『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』で原恵一が描いて見せたタワーの頂上目指して駆け登る「しんのすけ」の疾走がそれだった。
実写的心情のコントロールを駆使しつつ、実写では不可能な非現実的躍動を心地よく映画に取り込んで、実写を軽やかに超えるということ。細田守もそれができる人だ。つまり、実写映画にとって最も大切なものは人の心の移ろいを捉えることであり、実写に対してアニメーションは何ができて、何ができないのかを知っている人だということだ。
ラスト近く、功介(板倉光隆)の「まっすぐ前見て走れよ!」の言葉に送られれ、千昭(石田卓也)が待つグランドへと向かう真琴(仲里依紗)の疾走は美しかった。画面の右から左へと時間と競うように懸命に走る真琴。時間に追いつかれ画面の外へと消え去りそうになる真琴。意志という力で、時間という意志外の力に立ち向い、その重圧にくるくると変わる彼女の表情。
濁ってカタチを失い流れ飛ぶ街の背景を駆け抜け、夏の空が真琴の遠く向こうまで広がったそのとき、彼女は一気にフレーム(枠)の外へと駆け抜ける。次の瞬間、私たちの目の前いっぱいに広がる青空、天高く立ち登る入道雲。彼女は初めて現実の「時」の中を自力で駆け抜けたのだ。一見、単純な実写でも可能なような疾走シーンだが、そこにはアニメーションにしかできない「時」を追い越す快感と感動が確かにあった。
真琴の叔母が言ったように、彼女は遅れてくる大切な人をただ待ち続ける少女ではなく、自ら「時」を駆け抜け千昭を迎えに行く少女になったのだ。真琴は自分の可能性に向かって疾走した。少女にとってのひと夏の出来事はそれで充分だった。そう気づくときが、いづれ未来から真琴にやってくるだろう。
最後になったが、奥寺佐渡子脚本の活き活きとした台詞と、その言葉をみごとに体現し、共感あふれる闊達な少女を作り出した仲里依紗の存在も大きかったと書き添えておかなければならないだろう。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (11 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。