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[コメント] マリー・アントワネット(2006/米)

史的威容を放つベルサイユを舞台に、これまた奔放退廃気分漂うロックに乗せてポッフに切り取られた映像が楽しい。しかし、一国の王妃だろうが200年以上前の人物史など何が真実か分かるはずもなく、勿論どう料理しようが勝手だが、ただの女はただの女でしかない。
ぽんしゅう

ソフィア・コッポラ監督の、前作『ロスト・イン・トランスレーション』で描かれた、現代という時間は共有しながら、空間だけ越境して異文化圏に放り込まれた男と女の孤独と連帯は実に共感が持てた。そして、ソフィア・コッポラは、本作のキルスティン・ダンスト嬢にさらに複雑な越境を強いた。

越境は二つある。一つは、オーストリア宮廷から、政略的使命を課せられて時の強国フランス宮廷に、14歳で嫁いだマリー・アントワネットという女性の史実上の越境。二つ目は、現代アメリカの覇権主義を背景とした浪費と飽食社会の象徴的舞台装置として選ばれた16世紀のベルサイユ宮殿の王室へ、現代のアメリカ娘の感性のままで王妃を配置するという象徴的空間と歴史的時間の越境。

前者の越境物語だけなら、それはマリー・アントワネット伝としての映画になっただろう。あの「ベルばら」のように。しかし、ソフィア・コッポラの狙いは、当然そんなところにはなく、今のアメリカ的な事象を取り込むことによって、マリー・アントワネットに現代の女性あるいは現代人の孤独と不安、そして浪費と飽食の滑稽さとやるせなさを描くことに挑んだ。

その、志の高さは大いに認めるが、残念ながら失敗だった。この映画の物足りなさと、分けの分からなさの原因は、ソフィア・コッポラが自ら仕組んだ複雑な越境行為を処理することが出来ず、キルスティン・ダンストにただの女をただ演じさせることしかできなかったことに尽きる。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)わっこ[*] Keita[*]

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