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[コメント] さくらん(2007/日)

例え写真家蜷川実花特有の極彩色の画が映画のように動いていたとしても、当然それだけで「映画」が成立する分けがなく、自らの未熟さとタナダユキ脚本の単調さをまぎらわそうと椎名林檎を垂れ流してみても誤魔化せるほど映画館の客の目は甘くない。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







当たり前のことだが、映画監督の仕事は「画」を撮りそれを見せることではなく、「映画」を作り観客に何らかのメッセージを送ることである。確かに水を得た魚(金魚?)のように、絢爛たる極彩色のポップワールドを溌剌と艶やかに泳ぎ回る今風勝気娘花魁土屋アンナの姿は見た。しかし、その今風娘に託されたメッセージには、あまりにもお決りの幸せ願望しか見出せず、しかもその表現描写は映画としては至って杜撰だった。

少女が遊女たちの豊かな乳房に「女」を見出すシーンや、きよ葉(土屋)の艶やかさに「男」たちが口々に垂涎の言葉を発するシーンの稚拙なリフレーン。出るぞ出るぞとばかりに映し出された障子の向こうに、何の工夫もためらいも無く表れる満開の桜など、見ていてこちらが馬鹿にされているのではないかと感じるほど映画を舐めきった描写であった。本来、このようなシーンが如何に描かれるかによって、映画が発するメッセージの下地が出来上るものなのだが。

さらに、遊女(菅野美穂木村佳乃美波)らは、話しを進めるためにきよ葉(土屋)の周りに配置されたただの記号でしかなく、そこにはキャラクターを見出せるほどの人間味は微塵も描かれていない。男(安藤政信椎名桔平成宮寛貴永瀬正敏)たちに至っては、類型的と呼べるほどの類型すら与えられていないではないか。これでは、いくらなんでも「映画」が成立するはずなどないことを、蜷川監督は理解していないようにすら見えてしまう。

おそらく、蜷川実花は映画を撮りたいと心から望んでいたわけではないか、もしくは彼女には映画を構築する才能がもともと備わっていないかのどちらかだと思う。要は「熱意」が無いか「センス」が欠如しているのだ。熱意の欠如は、他の映画人や観客に対して甚だ失礼である。もっと勉強して欲しい。もしも、この映画的空疎の原因がセンスの欠如なら、それはもう致し方のないことだ。

いずれにしても、第一作目で決め付けるのは早急に過ぎるのは承知している。ただ、熱意が無いのであれば、きっともう二作目は撮らないだろう。かと言ってセンスが原因なのに、二作目を撮られても客としては迷惑な話なのではあるが。

(評価:★2)

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