コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] パレード(2010/日)

「曖昧さが生む安心感」は、いずれ「曖昧さによる危機」を迎える。そして「曖昧にしか自覚されない危機」は、漠然たる安心幻想を求めて、さらに強固な「あいまいな連帯」を模索し伊豆高原をめざす。これは若者ではなく、我々の「曖昧な社会」の話じゃないか。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







何も曖昧さがすべて悪いとは思わない。自分ひとりでは、どうにもならない事態もある。曖昧さをただす関係には、必ず衝突や軋轢が生じる。難しいことは考えず自らの曖昧さを抱えたまま、そして他人の曖昧さなど指摘せず、ただ寄り添い合う方が楽であり、そんな関係は絶大な安心感を生む。しかし、その安心感は永遠の平穏さを担保しているわけではなく、曖昧であるがゆえに常に内部に時限爆弾のような危機をはらんでいる。その危機は、必ずやいつか頭をもたげ新たなる危機をもたらす。

友人を亡くした重大さを曖昧にしか感じとれない良介(小出恵介)は、空き巣の成果のように手に入れた先輩の女との曖昧な関係を良好だと信じようとしているようだ。男との曖昧な関係を自らの身を傷めたことで断とうと決意する琴美(貫地谷しほり)だが、生活者としての彼女の世の中での立ち居地は曖昧なままだ。あたかも自傷行為のカミソリのようなビデオテープを他力で取り上げられた未来(香里奈)の、この部屋を出てみようという漠然とした思いのその先にある生身の男の壁の克服は、遠い出口を目指して闇のなかを手探りで進むような曖昧な行程だろう。彼らの共同生活が生み出す安心感は、心地よさとして、根無し草のように性を曖昧に生きる男娼サトル(林遣都)にも伝播する。

そして彼らの曖昧さはついに、あまりにも大きな世界と闘い続け、勝利も敗北も手にすることができなくなっている直輝(藤原竜也)の曖昧さにまでも、安心幻想の救いの手をさしのべる。いや、さしのべるなどという生易しいものではない。それは同調圧力であり、「伊豆高原、直樹もくるよね!」はすべてを超越した呪文なのだ。何故、彼らは共同生活を始めたのか、そして彼らはそれぞれの危機を抱えながら、何故みんなで「伊豆高原」を目指すのか、きっと誰にも説明できないだろう。曖昧さが生む、曖昧な関係の所以である。

「曖昧さが生む安心感」、「曖昧さによる危機」、「曖昧にしか自覚されない危機」、さらなる「あいまいな連帯」。これは何も、今どきの若者に限った風潮ではない。今どきどころか、かつて増村保造が60年代に告発し続けていた日本の村社会気質そのものではないか。しかし、増村と行定勲には大きな違いがある。行定は、この日本的構造の縮図、すなわち日本人の曖昧気質を否定も肯定もしない。それは、行定がかつて『きょうのできごと』で描いた「曖昧な学生たち」を優しく見守る視線の延長線上に、直輝(藤原竜也)や未来(香里奈)たちの葛藤と苦闘からの逃避、すなわち我々日本人の卑怯とも華麗ともとれる曖昧さへの逃避を位置づけているからだろう。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)セント[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。