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[コメント] 愛と誠(2012/日)

この物語(原作)の核心は、はたして早乙女愛的な善は悪に対して有効かという問題に尽きるのであり、今更そんな命題、こっ恥ずかしくて正面きって映画になどできないわけで、その点で三池のアプローチは実に正しいのだが、音楽劇の完成度と意地の悪さの詰めが甘い。
ぽんしゅう

まず、恥ずかしい話を書く。1973年、原作「愛と誠」が少年マガジンに連載され始めたとき、あろうことか私は、大賀誠や早乙女愛や岩清水宏と同じ現役高校生だった。いわゆる団塊世代が政治、文化、風俗すべての分野を根こそぎなぎ倒し、ボロボロに喰い散らかしていった狂騒のあとをトボトボとついていった世代である。当時、私たちは「無責任、無気力、無感動の三無世代」とか「シラケ世代」と呼ばれていた。

そんな「何も無い感」に日々さいなまれる高校生の心の隙間に、この超アナクロ純愛マンガは、獲物を見つけた蛇のようにするすると侵入し、私たちは「恥ずかしげもなく」大ブームを巻き起こしてしまったのである。高原由紀の正体があかされた翌日など、H県立T高校2年6組の教室は朝から異様な興奮と動揺につつまれていた。

ああ恥ずかしい。当時すでにかなりひねくれていた私は、そんなブームを斜にかまえて眺めていたのだが、とは言え早乙女愛を一瞬でも健気でいとおしいと思い、岩清水の「僕は君のためなら死ねる」などというセリフを容認してしまった同世代人として、恥ずかしくて、恥ずかしくて死にたくなるのだ。「愛と誠」とは、私にとってそんな話なのだ。

三池崇史も、ほぼ同世代だたから、当然、早乙女愛の善に対するスタンスは私と同じである(はずだ)。それが、まともな大人の感情である。本作の早乙女(武井咲)は、純粋無垢の権化となった間抜けな少女として描かれる。「あの素晴しい愛をもう一度」のときに見せる武井の嫌らしい媚びが素晴しい。サントリーの金麦のCFで檀れいが見せる媚と同じぐらい不快で素晴しい。

しかし、早乙女(武井)に対する意地悪が、大賀、高原との対峙シーンの大ボケを最後に鳴りをひそめてしまう。残念だ。世間に対しては徹底的に鈍感で無自覚でありながら、自分の感情にのみ忠実で、しかもまったく抑制が効かない「善」など、一歩間違えば「悪」になりかねない。それが早乙女愛が体現する善幻想なのだ。そんな危険な「善」など徹底的に笑いのめすことこそが「愛と誠」の映画化に、唯一残された正当な意義だったはずだ。

もうひとつ、音楽劇部分の手抜きが残念。ミュージカルパートの出来、不出来の差が激しすぎる。面倒くさいので、誰のパートがどうのとは書かないが、やはりパパイヤ鈴木は過去の人なのである。本来、映画において、優れた歌謡と舞踏は物語を神話の世界へと導く。例えば『嫌われ松子の一生』(06)を思い出せば同意してもらえるはずだ。あるいは、直近では『モテキ』(11)のPerfumeと森山未來の街頭ダンスをぜひ観て欲しい。

役者はみんな素晴しく、がんばっていた。なかでも著しい新境地を見せた加藤清史郎君の凛々しさは記憶に留めたい。上手に「泣いてみせる芸」だけが、子役の証しではないのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (7 人)DSCH たいへい サイモン64[*] ぱーこ[*] chilidog[*] けにろん[*] シーチキン[*]

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