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[コメント] リバーズ・エッジ(2018/日)

4:3の画面のなかに再現される1990年代前半の高校生たちの魂の不全。彼らは自分たちの非力さにも、やがて無防備なまま世紀末の荒れ野に放たれることにも、まだ気づいていない。が、彼らは虚ろな決意を呪文のように繰り返す。私たちは平坦な戦場を生きのびる、と。
ぽんしゅう

あの頃、遅刻しかけた女子高校生が教諭が閉じた校門の扉にはさまれ圧死した。ジュリアナ東京のお立ち台が狂騒に包まれ、雲仙普賢岳の溶岩ドームが崩れ去り、怒号のなかでPKO法が成立した。皇太子が結婚し、自民党が下野し、田中角栄が死んだ。そしてジュリアナ東京があっけなく閉店し、炎と黒煙に包まれた神戸の街が朝のテレビに映し出され、東京の地下鉄に毒ガスが撒かれた。あの世紀末の話だ。

戦場の予感。彼らが予感し覚悟した“平坦な戦場”とはなんだったのだろうか。

生きているのか、死んでいるのか、分からない俺(吉沢亮)は“無の存在”を疑似所有することで(すべてを受け入れ)安堵する。いち商品と化して高度消費社会の激流のなか、もう引き返せないことを知っている私(SUMIRE)は“無の存在”をざまあみろと嘲笑い(すべてを受け入れ)自らを癒す。そんな二人に共感するでもなく、憧れるでもなく、同情するわけでもない私(二階堂ふみ)も、“無の存在”を共有することで(なんとなく、すべてを受け入れ)親近感でつながってしまう。俺と私と私の“あやふやな連帯”。

1990年代の前半、高校生はインターネットはもちろん携帯電話すら手にしていなかった。たとえ魂が不全を起こしても、彼らは生身をさらしたコミュニケーションを強いられていた。今の若者たちがそうするように仮想空間に逃げ込む術など存在しなっかた。戦場を予感した彼らが見つけ出した精一杯の生身のバリア。それが、自分たちの存在を“無の存在”の一歩手前に留めておくための、この“あやふやな連帯”だったのだろう。

彼らの少しお兄さんや、お姉さんたちも、マントラを唱えながら地下鉄に毒を撒いて、この世とぎりぎりのところで生身のコミュニケーションを保とうと試み、あえなく散った。そんな乱痴気騒ぎの数年後から21世紀へ。この高校生たちは、いわゆる就職氷河期に遭遇する。ちょうど、そのころからだろうか。世の中に仮想空間が張り巡らされはじめ、生身のコミュニケーションの煩わしさから解放された、ような気がし始めたのは。

今の若者たちの状況は、25年前に岡崎京子が描いた時代とはあまりに違ってしまっている。これが私の、20世紀末から甦った亡霊のようなこの映画(彼ら)の第一印象だった。確かに世の中の状況は激変したように見える。でも本当に、生身のコミュニケーションの煩わしさは解消されたのだろうか。人と人の結びつきは必ず煩わしさをともなうものだ。安らかで心地よいだけの関係などあるはずがない。今、煩わしさは仮想空間のなかに隠ぺいされているだけで、地中に溜まったマグマのように、ある日突然大地を引き裂き吹き出すのではないだろうか。

25年前、彼らは確実に“平坦な戦場”の入口に立っていた。もう彼ら(と共に我々)は“平坦な戦場”を抜け出すことができたのだろうか。それとも、まだ出口すら見えていないのだろうか。あと25年たって“今”が歴史になってみないと、答えは分からないのかもしれない。

そんなことを考えた。

(評価:★4)

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