コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 海辺の映画館 キネマの玉手箱(2019/日)

いろいろ言うが結論は一緒で、さりげなく、かつ、しくこく念を押される。話しの前後は入り乱れ、長短もテンポも気ままで唐突に思い出話しが顔を出す。いつ終わるのか分からない爺さんの話しを聞かされいるような映画だが、観終わった途端にもう一度観たくなった。
ぽんしゅう

そろそろ“終り”だなと思ってからも話しは延々と続く。いったい、いつ大林宣彦は"語る”のをやめるのだろうと呆れていたら、この饒舌は「終りたくない」「終わらせたくない」という確信的な破綻の選択だったのだ。覚悟とはこうゆうことだろう。古今東西、こんな映画観たことがないし、これからも現われないだろう。

中原中也の静かな激情に導かれ、近代以降の日本の戦争史が、映画技術の発展と表現形態(ジャンル)のパロディを軸に語られる。さらに戦争に対する小津安二郎山中貞夫の距離や、『独立愚連隊』や『無法松の一生』などの戦争への向き合い方に、戦後の日本映画へのオマージュと反省がされげなく示される。

そして本作は、大林による自身の映画人生への「別離の辞」の様相を呈する。『マヌケ先生』に託された幼年期の映画との出会いと創作の原点の回顧は瑞々しい。舞台となる映画館の館主・ファンタ爺(高橋幸弘)は大林本人、チケット売りの婆さん(白石加代子)は妻大林恭子、そして父の理解者であり思想的継承者の娘(中江有里)は大林夫妻の一人娘の化身だろう。さらに調べてみると、ヒロインを演じる女性たちの名前の和子(山崎紘菜)、一美(成海璃子)、小百合(常盤貴子)は、やはり、それぞれ『時をかける少女』、『転校生』、『さびしんぼう』の少女たちの役名だった。

大林がいままで語ってきた物語の断片が「物語」の核心にまで純化され、その断片が(矛盾を承知で書けば)計算づくのカオスとなって「物語」を超越してしまっている。たとえ演出の意思が反映されていようと、カオスはカオスであり、この映画は出来不出来を云々する次元にはない。完成度などという尺度はカオスには無効なのだから。当然、私にはこの映画を語る言葉が見つからないし、そうすることに、積極的な意義もないと思う。

偶然ながら劇中の8月6日から75年回の同日に鑑賞した。これもまたタイムシフトマシンとしての映画の力なのだろう。

余談です。脚本に小林竜雄氏の名前を見つけた。懐かしい名前だ。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)セント[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。