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[コメント] 神々の深き欲望(1968/日)

文明とは古代神道(神々)の畏れに始まり、現代の高度資本社会へと連綿と続く「人間の欲望」の変遷の軌跡に他ならないのだ。では、お前にとって文明とはいったい何なのか、この物語はそう問うている。高度経済成長末期に、その終焉を予期するように作られた傑作。
ぽんしゅう

経済発展を賭けて経済資本を島へ誘致しつつ区長(加藤嘉)は、神聖の象徴である不可侵領域としての御嶽(うたき)の森を死守し、島の若者たちは閉鎖性に苛立ち都市への憧れを抱きつつも、非科学的因習の最たる行事であるドンガマ祭りに渋々参加する。そこにあるのは、欲望と畏れの間で揺れ動く「心」の振幅だ。

一見、両極の存在として対置されたネキチ(三國連太郎)と技師(北村和夫)だが、二人とも同じその価値の揺れに翻弄されるのだ。つまりは、土着と因習という文明を引きずっていようが、資本と科学という文明にどっぷり浸かっていようが、二人とも唯の非力な「人間」に過ぎないということだ。

今村昌平にしては政治色が色濃く反映される。神に捧げる米を作る田(神田)を死守する逸話などまるで成田の空港反対闘争を思わせる。1960年代後期という時代に軸足を置いて文明を語れば、必然的に視線の先に政治(制度設計)がはらんだ矛盾があぶり出されるということだ。その意味でもこの物語で試みられる神話への越境は、いたって志の高い同時代性を獲得している。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)寒山拾得[*]

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