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[コメント] 秋刀魚の味(1962/日)

固定枠の中で人物が動く。床上20cmの遠近法。圧倒的な日常描写。日本間に背広。戦後高度経済成長の空気感を封印したタイムカプセル、私は13歳だった。
ぱーこ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最近ずっとおかしい。いつからおかしいかわからない。なにかにせき立てられるようにして落ち着かない.いろんなことに自信がない.電車の中で体が触れるとびくっとなってすみませんと必要以上に謝っている。私だけじゃないぞ。「人間は結局一人だ。私は失敗した」戦後の落ちぶれた元教師がいうならわかる。いまや若い奴らからみんなこの通奏低音が流れている.ネットの発言をみてもそんな気がする。

この映画の中で玄関の戸は鍵が閉まっていない。訪問客は,中から返事があるだけで勝手に入って来る.団地にしてもそうである。外の人間を確認して鍵を開ける、という動作がない。鍵を閉めるのは夜になってもう誰も来ないことがわかってからだ。つまりは家の外から理不尽なものがやってこない、という安心感がある。

昭和37年のこの空気感をこの映画を見て思い出した.そして世界は固定した定間の中であらためて喜怒哀楽の人情の世界が広がっていた。いまや映画のフレームは動きまくり、立体感を演出するために視点の移動は当たり前である.ゼログラビティの宇宙空間ならわかる。それが地上の日常生活になった。要するに不安定な一人称の視点でしか世界を描けない。個人の自由を追求すれば、個人個人はばらばらになり社会生活はその合意のためにコンプライアンスなる人工的な制度を持ってこなければならない。これが我々から自然感情のリアルな世界を剥奪している。そんなことを考えた.

始めの数シーンで23,4の娘を嫁に出す父親の話であることはすぐわかる。用意周到な伏線がさりげない日常の場面で提出されている。だがそんな構成的完成度を越えて,周到に準備された手堅いセリフの数々は当時の価値観を示して余りある。「お前は最近きたないと思うんだ」若い嫁さんをもらって脂下がっている友人にそういう.「おれはキレイ好きだよ」「昼はキレイ好きで夜はすこぶるきたな好きか」SEXはきたないものなのだ。なぜか。それは当事者同士だけの世界を作るからだ.それゆえ社会生活上の危険行為である。そういうことはまず美意識としてきたないのだ。つまり美意識の基準は個人ではなく社会にある。共同体が先なのだ.世間体ということである。

この映画を見て思い出した、中学2年生の私もそう思っていた.というか当時のそういう空気感にひたっていた。今はどうか。週刊誌の宣伝をみるといい。恥外聞もなく個人の快楽追求は良いことなのだ.そのギャップに愕然とした.それは多分私の中にこの時代の価値観が色濃く残っているからだ。この作品をみて今更ながらに思いだした。植木等のスーダラ節も同時代。吉永小百合のキューポラも同時代。松竹の伝統である日常生活の喜怒哀楽を人物を通して描く、という観点からすればこれは「哀愁」の映画だ。すでに消え去り行く戦前の真善美、倫理と道徳が消えてゆく映画なのだ。娘が嫁いで一人バーでウィスキーを飲むシーンでの軍艦マーチに敗戦国の空虚な哀感がよく現れている。

個人的には落ちぶれた教師役の東野英治郎の酔い方が痛切だった。しかし今は成熟が許されない時代である。この私も50年前からまったく成熟していない。65歳にして妖怪ウォッチジバニャンの百烈肉球だよ。号泣議員があれほど受けたのも、みなどこかに未熟なものを仕方なくかかえているからではないだろうか。

映画的興奮と50年の時代感の変化とひさしぶりに確かな生きている感じを与えてくれた映画だった.文句なしの星5つ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (9 人)irodori おーい粗茶[*] jollyjoker ナム太郎[*] 緑雨[*] ぽんしゅう[*] DSCH けにろん[*] 寒山拾得[*]

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