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[コメント] 男はつらいよ 寅次郎子守唄(1974/日)

人情ものとして過不足ない出来。こじんまりバランスをとった印象。
ぱーこ

これは映画のコメントではありません。

なぜ「男はつらいよ」全編踏破を始めたのか。それには3つの訳がある。

1968年このシリーズがTVで始まった時、これは母ものだったと思う。母親に捨てられた寅がさくらの母性に援護を得てマドンナに向かう哀しい物語だったはずだ。一見喜劇に見えるがその実、決して成就しない寅の恋物語なのだ。そう思って見ていた。私は19歳だった。工業高校を卒業して働きながら浪人して受験した大学受験に落ち1年勤めた退職金で予備校に通っていた時期である。山田洋次の人情喜劇映画版を見る心の余裕はなかった。私の黒歴史の始まりである。

3年浪人してなんとか大学に入ったのが1970年である。やっと入った大学に馴染むことができす籍だけ置いてバイトばかりしていた。その間に両親が続けて亡くなった。この1974年大学生活は4年目になっていた。教養課程を1年落第して、やっと専門課程に進学できた。相変わらず週の半分は工事現場のバイトをしていた。友人もなくバイト先と単位を取るための授業と実験に出席するだけの侘しい生活だった。

この回の上條恒彦が主宰しているコーラス活動など初めから遠ざけていた。これは民青の文化である。民青とは日本共産党の下部組織で民主青年同盟の略語である。50年前のこの組織が今あるか私は知らない。私は自分の属する階級が民青に親和性があることを承知していたが、とても恥ずかしくてそこに近づくことはできなかった。この屈折した自尊心は今なお私の中にくすぶり続けている。自分に近いと思っていたのは全共闘だったが、大学闘争は私が浪人していた3年間にあらかた終焉を迎えていた。要するに私には所属するところがなかった。その心情が旅空に葛飾柴又を思う寅に一部通底するところがあると思っていた。

結局大学を2年落第して人より5年遅れてなんとか教員になったのは27歳の時である。離島僻地の高校だった。それまでの10年間が私の黒歴史である。その時期、男はつらいよ、は盆暮れの2回制作され上映されていた。当時映画館で見た記憶はまったくない。隠れるようにして日活ロマンポルノはよく見た。大学をサボって渋谷のテアトルSSなどである。ATGも新宿文化劇場に通って見た。

男はつらいよ、の劇場版をみるということは、この1969年から70年代の空気に映画を通して触れることになる。たとえばこの回のさくらのアパートには黒電話が入っている。初めの頃は呼び出しでとらやの下の部屋で電話していたんじゃないだろうか。私の一家が住んでいたアパートでもはじめは管理人室しか電話がなかったが、1972年に母親が亡くなった時は部屋の黒電話から私は医者に電話しているのだ。当時の流行歌を寅が口ずさめば、当時のことを思い出す。

残り2つの理由は今年の夏に、私の知人で2人の「寅」が亡くなったのだ。一人は私の妻の兄で、まったくフーテンの寅みたいだと言われていた男である。寅と違ってテキヤではなく重機の免許を持っていて全国の工事現場を転々と渡り歩いていた。いく先々で女に惚れ、でも籍を入れることはなかった。子供がいるのだが母親が育てたので、会っていないと思う。そのほかにも同棲していた時期がある。さしずめ私の妻がさくらというわけだが、妻は身内のこのフーテンを恥じていて私に合わせようとしなかった。金の無心にくると絶対に渡しちゃだめ!と厳しかった。映画のさくらとはずいぶん違う。私も博のようにこの義兄と話をしたことはない。なんどか顔を合わせたことはあるが挨拶程度の付き合いだった。それでも親戚は親戚である。 この義兄の葬式では離島の全人口の8%近くが参列した。村長まできた。スナックの女の子が焼き場までついていった。十人が十人いい人だった、という。だが身内からするとあんなに迷惑をかけたやつはいない。根は優しいが金にだらしない、というのである。葬式から遺品の整理まで結局は妹である私の妻が全部仕切ったのだ。離島なので私は葬式に出席しなかった。香典返しの名簿をエクセルで作っただけである。

もう一人は私の中学の同窓生で晩年になって、ここ10年ほど年に1、2度部活の同窓会で集まるときに顔を合わせている男である。かれは顔が渥美清に似ていた。目が細く笑顔に愛嬌のある顔立ちだった。貧乏で苦労した人間で高校は私立に入ったが退学して私が通っていた工業高校の定時制を卒業した。高校卒業後、私の黒歴史の時になんどか会ったことがある。私がビル掃除のバイトをしながら浪人しているときHONDAのCIVICに乗せてもらったことがる。自分の車を持っていたんだ。晩年はタクシーの運転手をやっていた。会うと寅の口真似をして「四谷赤坂麹町ちょろちょろ流れる御茶ノ水粋な姉ちゃん立ちションベン」と口上を挨拶がわりに言った。今年の夏あった時、大変痩せていて皆に一度医者に見てもらえ、と言われた。その度にうん、と生返事をするだけで医者に行っている様子はなかった。恩師の持っている熱海の別荘で同窓会をした。帰りは彼の運転する車で東京まで来た。プロの運転は流石にうまかった。その彼がそれからひと月ほどして亡くなった。全身転移の末期ガンとのことだった。「もうおれたちには何があってもおかしくないんだから」となんどか話したことがある。冗談とも思わなかったがそれほど本気でもなかった。家庭が複雑で現在生き残っている兄は認知症で施設にいる、とのことだった。同窓会のメンバーが一人その兄を訪ねていったが意思を通わせることはできなかった。1週間福祉の施設に遺体を置いて、行政の力で荼毘に付した。その同窓生一人だけが立ち会った。遺族が出るまで1年はそこであづかってあとは無縁仏がいくところ行くという。私は仕事があって焼き場に行けなかった。

netflixに男はつらいよの第1回目のサムネールがあり、たまたま時間が空いて洋物を見る気分でもなかったのでつけて見た。90分という尺もちょど良かった。ネットフリックスは1回目が終わるとすぐに2回目が続けて見られる。一度電源を落としてもそれは記憶されている。家のTVにはfire stickというインタネットが見られるwifiのステックをつけた。それですぐに男がつらいよを見られるのだった。そうして連続して見ていくうちに、これは私の弔い合戦だな、と思った。私の貧しい青春とそして今年の夏に逝った二人の「寅」を弔っているのだ、と。

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