コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 男はつらいよ 葛飾立志篇(1975/日)

山田洋次にとってフーテンの寅とは何か
ぱーこ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







このシリーズが始まった時、山田洋次は寅と同じ40歳目前だった。かれは東大法学部卒業となっているが、敗戦後の日本の社会が騒然としている時で、今回のテーマである学問など当然していない。明治時代からの学問観には二つある。一つは人格完成のための学問で、学問を成した人間は何より人格の完成した教養人であることが保証されていた。これは要するに中国の為政者にとっての必要な資格であった。江戸幕府が培ったのもこういう学問である。もう一つは西洋からの実学で生産性を上げ、立志出世のための学問である。この理念と実学の2つの方向を持って富国強兵を歩んできた日本が敗戦した世の中で山田洋次は学生時代を過ごしたことになる。

小林桂樹演ずる大学教授の専攻としている考古学はいわば人格涵養のための学問の象徴で「そんなことをして何の役に立つのかわからない」ものである。樫山文枝が通っているのは東大本郷でその東大が明治初めにできたときは、為政者のための法学部、人格の基礎を作る文学部・理学部、そして人命を預かる医学部の4つだけであった。その後経済学部、工学部などの実理学部があとから付け足される。今回も大学教授に対するデフォルメには悪意すら感じる。大学の先生には奇人変人が多い、というのはある種の庶民感覚であるが、チェーンスモークの設定には屈折した監督の自画像まで推測される。山田洋次の中に学問に対する激しい憧憬とそれを満足に果たせなかった思いが未処理のままくすぶっているのではないだろうか。そうでなければ大学教授に対する激しい戯画化の意図がわからない。

その大学教授が寅を師と仰ぎ、樫山文枝に求愛を拒否される(男の愛より自立した女性像を選択した)物語進行に、監督はずいぶんとこの主人公フーテンの寅に思い入れがあるのではないか、と思われた。これは単なる喜劇映画の主役としての設定ではない。東大法学部卒業と言われても形だけのもので映画産業で技術を売っている職人ではないか。啖呵売を生業とする風来坊、フーテンの寅はあるいは山田洋次の夢想する生き方ではなかったか。今回、寅は振られることなくずいぶんと大人しくとらやを旅立っている。ここに寅に対する山田洋次の思いをみるのは考えすぎであろうか(もちろん映画を見ている大衆もまたそれに同意してくれるであろうという狙いもある)

フーテンの寅は私である、と山田洋次は言っていないと思うが、そう思っていた(いる)のではないだろうか。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (4 人)jollyjoker ぽんしゅう[*] ロープブレーク けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。