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[コメント] 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎(1983/日)

イメージとバランスの勝利
ぱーこ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭夢のシーンのレオナルド熊。ラストのレオナルド熊。夢の熊がそのまま寅の分身なら、ラストの熊はありうべき寅の姿である。このダブルイメージの伏線と回収がすばらしい。流して見ているとあれっと思うだけだが、この作品は全編このイメージの饗宴がすごい。

寅のお墓参りはひろしの父、さくらとひろしの結婚式で男泣きした志村喬。もうここからして原点回帰。最初の作品からもう10年以上経っているから,全作品を頭から見るという今でなければできない鑑賞法で初めてわかることかもしれない。監督はもちろん気がついているが、それは撮っていくうちにまるでそのとき発見するような経験かもしれない。映画の神がここに降臨しているのだ。

寺の和尚が2代目おいちゃんの松村達雄。寅の一方的な恋愛感情から繰り広げられるドタバタ劇、その初期の設定を匂わしておいて、32作目のここではステージは一段上がっている。すでに寅はマドンナと相思相愛なのだ。だが、現実的にはそこに越えられない障害がある。今回は寅が坊さんになる修行ができない、という設定にしてある。修行を三日坊主で投げ出す煩悩の塊の寅に憤慨している御前様がすれ違う竹下景子を見て煩悩を刺激されるというエピソードもうまい。

ではなぜ寅の恋愛は成就せず、寅は所帯を持てないのか。それは寅が「はぐれものの美学」に殉じようとする存在だからだ。とりあえずそう言っておく。

杉田かおると中井貴一のカップルはありうべき寅とマドンナとの逢瀬である。おいちゃんとおばちゃんのなりそめもまた同じイメージで語られる。寅は性愛から遮断されているから、ラブシーンも所帯も他の登場人物が代わりに演じることになる。さくらこそが真の寅のパートナーだがこれは異母兄弟の関係でいささか歪な関係である。

最後の駅の別れのシーンは、この寅とさくらとマドンナの関係がシリーズ中屈指の名シーンで描かれる。寅ははぐれものの美意識からマドンナを振るのである。さくらは「何があったの?」と聞くが答えはすでにわかっている。こういう人なのだ、という形で。当時嫁さんにしたい女優NO1だった竹下景子には寅の真意は伝わっていない、という設定。この三者三様の描写がまさに人情映画としての完成度を見せつけている。寅が来る前に朋子はホームの上から二階の物干しの洗濯物を見る。この所帯の生活のイメージが、そのまま最後のあき竹城がしまうのを忘れた洗濯物につながる。こういうイメージの連鎖とこのシリーズ全体の様々なテーマの断片がこの作品には満ち満ちていてしかもそのバランスが大変うまい。

初期のシリーズでは、マドンナは女の無意識の身勝手から寅の心持ちをわからない存在として描かれているが、この作品ではっきり示されたのは寅が相手の気持ちも十分わかった上で自分から身を引く形で相手の好意を遮断するようになるのだ。そういう渡世人の矜持を自覚的に示すようになっている。そうした設定の上で人情が描かれるシリーズとなっている。

(評価:★5)

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