[コメント] 甘い生活(1960/伊=仏)
フェリーニの孤独・・・。
高校時代、フェリーの全作品を見て、チネチッタで映画の勉強をしたいと思った。親戚まで出てくる騒ぎになって、オジサンに「そんな強情な奴はチネ!」とまで言われた。こうして、おれの思いはチッタ。
そんな「フェリーニ狂」へとおれを導いたものとは何だったのか?
それはフェリーニが偉大なる「孤独の巨匠」だったからである。
八方塞がりの現代社会。当時、問題意識を持った監督たちは「何か」に救いを求めた。例えばベルイマンには「宗教」があったし、ヌーヴェルバーグの監督たちには「政治」があった。そして、その他多くの監督たちには「愛」が・・・。
しかし、フェリーニには何もなかった。
そんな彼にできたのは「見ること」だけだった。この映画で、監督の分身ともいえるマストロヤンニの登場が「写真を撮るシーン」で始まるところに象徴的なように。
見ることしか残っていない彼に、もはや「物語ること」などできやしない。 それ以前の輝かしい作品群(『道』『崖』『カビリアの夜』)を後にして、 ここに、緩やかな紐帯しか持たないエピソードの羅列という「フェリーニスタイル」が生まれる。
「饒舌」と「沈黙」、「豊穣」と「貧困」といった概念を、単に「対立するもの」としてではなく、「共にあるもの」として肯定すること。
価値の乱立する現代にあって、一つだけの答えを自らに与えて安住する、そんなことは自分には出来ない、そうフェリーニは言うのだ。
今も、冷めた目で彼は孤独にそう呟いているのだ・・・。
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