[コメント] あゝひめゆりの塔(1968/日)
「戦争を知らない子供たち」に大人たちが冷水を浴びせかける行為は正しい。それはどんな状況であれ常に正しい。
そして今、21世紀の「戦争を知らない子供たち」は冷水の冷たさを知ることもなくニュースを「見る」。遠く離れた中東の地で毎日発表される米兵何人死亡という味気ないニュースには何の感傷も抱かない。我々には全く痛みがないから・・・
この作品では日本語を喋る若者たちが、これでもか、これでもかと殺されていく。これは「痛い」。痛くて拳を握り締める。「もう、いいよ。いい加減に止めてくれよ」と思う。だが殺戮は止まらない。ここでふと気づく。実際の彼等彼女等もきっと同じ事を思っていたのだろうなと。勿論、次元が違うほどの懇願だったろう。
非力な同胞に対しての艦砲射撃や機銃掃射は狂ったような凶暴さで殺戮を続け、そんな懇願など聞く耳も持たない。この作品では一兵たりとも米兵は出てこない。ヒト対ヒトの殺し合いではなく、上記のような圧倒的な鉄の塊が沖縄県民を殺戮して様を描いている。ナレーションも「運命」という言葉を多用して、抗うことが不可能な「天災」との戦いのように描いていく。
ヒトとヒトとの争いならば、懇願もまた有効かも知れぬが、無機質な鉄塊にただ一方的に殺されるのだ。中東からのニュースは鉄塊を発射する兵士の姿ばかりが映し出される。着弾し白煙を上げる地点は遠く、そこに何が、誰がいたのかは判らない。この作品とはまったく逆の論理だ。
だから我々は「痛く」ないのだ。
戦後60年が経とうというこの時期、誰かが冷水を頭から浴びせかけないと我々は暴走してしまうかもしれない。この作品が警鐘を鳴らす「現代の若者」はさらに増殖し、先鋭化している。理由もなく「日本語を喋る若者が殺されていく画」は今でも、否今だからこそ必要なのだ。
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