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[コメント] ゴジラ FINAL WARS(2004/日)

正直、これだけ悲壮な気持ちで観に行って、笑わせられるとは思ってもみませんでした。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 “とりあえず”のゴジラの最終話として作られた作品で、東宝はかなりの賭に出た事が分かる作品。なんせ総製作費20億はこれまでのシリーズにはない破格の製作費だったし、バトル映画(アクション映画にあらず)では定評のある北村龍平を監督に抜擢。更に水野久美、宝田明、佐原健二と言った、往年のゴジラ映画には馴染みの深い役者を多量投入。

 覚悟の程は分かるものの、正直、これほど不安だった作品はない。北村龍平というと、スピード感重視の迫力あるバトルシーンを作ってくれるけど、その分ストーリーに関してはもはや言うべき事もないボロボロの作品を作ってしまうから。こいつに最後のゴジラを託すのかよ。

 これは私だけじゃなく、恐らく往年のゴジラファン全員がそう思っていたのではないかと思う。北村龍平に作らせたら、当然ゴジラの重量感は無くなるだろうし、わちゃくちゃにバトルの連続になるだろう。怪獣も数が出てくるけど、数が数だけに見せ場は作れないだろう。しかもミュータント部隊などと言う、怪獣に対抗できる人間が出てくる…

 こんなので終わるのかよ!

 …とだけ言わせてくれなければそれで良し。正直な話、かなり悲壮な気持ちで劇場へ…

 それで、である。

 は?なにこれ?

 面白いじゃないか。

 確かに私が観たかったゴジラの姿も、“こうあるべきだ”としてきた怪獣ものの正しいあり方もそこにはまるで存在しなかった。ここには「ゴジラ」という素材を使って強引に自分の映画を作ってしまった北村龍平という人物しか見えない。

 燃えるシチュエーションだけを置いてストーリーなどどこ吹く風のストーリー展開。重量感があるのだか無いのだか分からないゴジラを始めとする怪獣群のアクロバティックな動き、ミュータント部隊同士による意味がないけど激しすぎるバトル。ミュータント部隊と怪獣とのガチンコ対決。ほとんど意味のないお色気シーン、玄太哲章の声で語るドン・フライとキレすぎの北村一輝。何の衒いもなく他の映画からのパクリを堂々とやってのける。もはやこれは怪獣映画じゃなく北村映画としか言いようがない。凄まじい出来に仕上げてくれたもんだ。

 怒るより呆れた…けど、その呆れを通り越えて楽しめた。

 50年の歴史を持つゴジラに対し、真っ向から「俺が食ってやる」という姿勢で臨んだ北村監督の狙いは間違ってない。いや、それどころか、妥協のない「オレオレ」映画だからこそ、中途半端に終わることなく北村映画として充分鑑賞に足るものだった。

 しかし、この作品で透けて見えたのは、実は別の事だった。

 何事にも原理主義を主張する人間というのはいるものだが、多分に私自身それに陥っていたと言う事実がそれ。

 私はゴジラとはこうあらねばならない。と言う枠に押し込め、その範囲内でだけ楽しもうとしていたのではないか?事実、ゴジラ作品の中に一種の“粋”の世界をそこに見ようとしていたのは事実で、そこから離れてしまうのは、後ろめたいというか、それを楽しんではならないと言う思いに陥っていたのではないか?そう言う思いにさせられた。

 しかし、そのような粋を感じるのは実はほんの一部の人間だけであり、それを認める人間というのは数が少ない。事実、マニアの中では傑作と言われる前作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003)の興行成績はボロボロだった。

 しかし、考えてみると私が初めて観たゴジラはゴジラ好きの人間には殆ど評価されていない『ゴジラ対メカゴジラ』(1974)であったわけだし、それを凄く楽しんだのは事実。後になってオリジナル版の『ゴジラ』(1954)で衝撃を受けてから、多分そこでどこか思考停止に陥っていた部分があったのではないか?そのように思えるのだ。

 ゴジラとは、一作目の意義を失った時点で、どれだけ遊んでも構わない訳なんだよな。むしろそうやって試行錯誤して新しいタイプを作り出すべきだったんだ。格好良いだけのゴジラがあって良いじゃないか。昭和シリーズを見ろ。そんな作品ばかりじゃないか。逆に平成シリーズのボロボロさ加減とは、私のように“ゴジラとはこうあらねばならない”という視野狭窄に陥って作られてしまったからではなかったか?

 一作目の再来は『ゴジラ』ではありえない。その前提に立っているつもりで、やっぱりそちらに引きずられすぎていた自分がいたわけだ。むしろこれは面白かったと言うより、自分自身を振り返らせてくれた。

 後もう一つ評価できることは、人間と怪獣をシンクロさせる方法。今まで色々な方法が試されてきた事なのだが(細かくは『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)のコメント参照)、ここではそれに真正面から取り組んでいた。先ず冒頭で轟天号に乗ってゴジラと戦うシーン。これは最も単純なパターン。しかしその後、実際にミュータント部隊が本当にエビラと戦ってしまい、しかも殆ど勝ちかけたと言うシーン。これは確かに初めてのこと。怪獣に対抗できる人間がいるとする、実に単純な論理でそれを描いていたこと。それとラストのミニラの存在も大きい。『ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃』(1969)で使われていたパターンであるが、最初ミニラを小さい姿で出しておいて、人間と一緒にいさせ、最後に巨大化させてゴジラと意志疎通をさせるシーンもあった。そしてもう一つ新しいシーンがあった。のが松岡演じる尾崎が北村演じるX星人役に馬乗りになってボコるシーンで、モニターで全く同じ事をゴジラがモンスターXにしてる…あ、なるほど。これは確かにゴジラと人間の縮尺の差を超えて、シンクロさせられる方法だ。半分笑い、半分感心した。こう見ると、人間と怪獣の二面性のドラマをどうやって結び合わせるのか、よく考えていたんだな。

 ただ、どうしても駄目だと思ったのがいくつか。

 設定に関してやると、それこそ論文が書けそうになるのでやめるが(笑)、最大の問題点は、北村監督、怪獣映画全般は好きだけど、ゴジラ映画に限っては、思い入れがちょっと足りないのが分かってしまった所。サービス満点でありながら、肝心の部分で「違うんだよ!」と言いたくなる。

 その中で大きなものは、怪獣の立場に関してなのだが、先ずキングシーサーは沖縄の守り神なんだから、沖縄を破壊してはいけなかった。あれをやるんだったら、ただ一つ台詞を変えるだけで済んだんだ。「沖縄から上陸したキングシーサーが鹿児島で暴れてます」。これだけで良かった(笑)。

 個人的にはヘドラが殆ど出なかったのも寂しいが、ああ言った軟体動物こそがゴジラを一番苦しめられるはずなんだが…(これは個人的な趣味)

 それと、ゴジラ最強の敵と言えば、当然“あれ”しかないのだが、何故出さないんだろう?と公開前には思っていた。それでモンスターXが“あれ”に変わる瞬間はカタルシスを覚えたもんだが(瞬間的にマジ涙が出そうになったぞ)、なんでオリジナルと同じにしない?しかも格闘をさせるために吊りで動かしていなかったたため、全然強そうでない。そもそもあの体型で格闘させようとすること自体が変じゃないか?大きく空に舞い上がって、優位な位置で徹底的にいたぶらなきゃ。ほんと、手の届かないサービスだよな。

 惜しむらくは、これは「最後のゴジラ」じゃなくて、「ゴジラにはこんな面も出せるんですよ」という意味で、もうちょっと早く出してくれていれば…

 今回私自身の反省も踏まえ、少々評価は甘くさせていただく。

(評価:★4)

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