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[コメント] 悪い奴ほどよく眠る(1960/日)

これはひょっとして黒澤版『ラ・マンチャの男』なのではないでしょうか?
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 黒澤明監督は内外で通じる大監督には違いないが、『隠し砦の三悪人』(1958)の予算超過は東宝の製作費を圧迫することになったため、黒澤は東宝を退社し、黒澤プロダクションを設立することになった。本作はその第一作となるが、それは大成功だろう。これほど重いテーマだったら、大手映画会社だったら製作出来なかっただろうし、もうちょっと時代が後だったら、ATG位しかテーマに出来そうにない。それを可能としたのは、まさにこの時代に独立プロを作ったからに他ならない。しかも本作は黒澤明という監督の実力を遺憾なく発揮した作品だ。このテーマをシリアス一辺倒にするのではなく、ピカレスクロマンにして、娯楽性をとことん追求し、しかもテーマを損ねることなく映像化してくれた。これぞ本当の“天才”の所行だ。

 『生きものの記録』(1955)同様、社会というものを真っ正面から捉えた作品だが、『生きものの記録』では抽象的だった“悪”の概念が、ここでは真っ正面に、しかも主人公がいくら足掻いても敵わないものとして描かれる。

 しかし、本作で興味深いのは、これだけ重いテーマを扱っていながらも、根底にユーモアが存在することだった。一体それは何なのか?と考えてみると、「ああ、そうだ」と思える例が一つ。金と権力というのは、まさにモンスターそのもの。それに徒手空拳で戦いを挑む姿は、実は『ドン・キホーテ』のキハナ老人と相通じる存在に思えてしまう。

 これを「馬鹿な奴」と言うだろうか?

 一般に見る限り、これは本当に馬鹿である。

 しかし、その馬鹿さ加減が愛すべき姿なのであり、だからこそドン・キホーテがキハナに戻る時、我々は一抹の寂しさを覚えつつも、著者のユーモアセンスに拍手を送るのだ。

 ここで三船敏郎演じる西の姿は、むしろ悲痛さを感じることになるのだが、最後に自分の野望を達成できた!と思った時、実は彼は謎の男ではなく、一個の人間になってしまった。あたかもドン・キホーテがキハナ老人に戻った時のように。それをユーモアというには、あまりに重すぎるのかも知れない。しかし、その重さこそが、本当に本作に華を添えるものであった事に気づく。

 ラストの台詞「申し分のない秘書を、しかも、娘の婿を失って呆然自失」と語る岩淵の言葉。これこそモンスターの話す一言であり、やるせなさの中のユーモアなのだ。  そしてまるで本作はこの後の日本というものを暗示していたことをも気づかされるだろう。金と権力というモンスターは、右肩上がりの経済状況でこそ、モンスターでいられる。事実、バブルがはじけた後の日本の財界トップがこぞってテレビ画面の前で頭を下げた姿は、本作のラストの後の物語のように思えてしまうのだ。

 モンスターは今もいる。物語は実は今もなお続いているのだ。もっとその事を私たちは考えるべきなのかも知れない。

 …これだけ褒めておいて点数がやや低めなのは、この作品での三船敏郎の描き方が失敗だったとしか思えなかったから。この主人公は三船じゃ駄目だったんじゃないか?そこがちょっと残念。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)sawa:38[*] 水那岐[*]

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