[コメント] ダークナイト ライジング(2012/米=英)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
以下、本作の枠組みのみのレビュー。物語についてはほとんど触れていないのであしからず。
ヒーローものとしては極めて異であった前作『ダークナイト』。これはヒーローの脱構築作品であると共に、“ヒーロー論”を極限まで押し進めた作品だった。あの作品でヒーローのあり方を示したバットマンが再び帰ってきた。しかも同じ『ダークナイト』の名を冠して。
あの作品でかなり衝撃を受けた身としては、これは言うまでもなく観なければならない作品の筆頭である。喜び勇んでIMAXで拝見。
…これはとても面白い作品だが、『ダークナイト』を越える衝撃を与えてくれるほどのものではなかった。それが正直な感想である。
それが感想とはいえ、それでも本作には最高点を上げたい。それだけの力を持った作品だ。
まず本作は『ダークナイト』の続編には違いないが、それ以前にノーラン版バットマンの総括作品である。三部作であるため、一作目の『バットマン・ビギンズ』も含めての最終作と考えねばならないだろう。
まず第一作目『バットマン・ビギンズ』はヒーローの誕生を描いた。両親を殺され、暗闇を恐れる青年が、自らのトラウマを克服して闇の騎士となるまでを描いた。正直これがそんなに面白い作品だとは思ってないのだが、これもまたヒーロー論としては大切な部分が入っていた。
ここではつまり、ヒーローは心に闇を持つ存在であるという前提条件が出されたことになる。バットマンという格好の素材を得たことが大きいが、これまでのどの作品よりも、ヒーローは闇に近く、その闇があるからこそ強くなれることを示して見せた。それまでの健全なヒーロー像からかけ離れたヒーローで、これもヒーローの脱構築を目指した作品であることが分かる。しかし物語はあくまで正当論を崩すことなく展開していった。
そして二作目『ダークナイト』はヒーローのあり方を描いた作品と言えよう。自らの思いに頼らず、ヒーローであればこういう態度を取らねばならないという正義を執行する側の覚悟が語られていた。
それに対して本作は、ヒーローの引き際について描いた作品と言えよう。まさしく三部作の最後にふさわしい話である。
2作目で既にヒーローの覚悟は描かれた。そしてその結末は一つしかあり得ない。即ち、正義に準じた死である。この部分に向かっていかに物語を構築するかが本作の重要な点だった。
そこで物語をどう作るか。ここでノーランは二つの視点を作った。一つは有象無象の市民の中からの視点、神の如き視点から見た視点。
そして市民からの視点部分でヒーローの後継者を作り上げた。ジョン・ブレイクという若者警官を物語の重要な部分に配し、この正義感溢れる青年(しかも孤児という設定まで与えて)が、やがて消えたヒーローの代わりとなるべく活躍する成長の物語として描いた。他にもフォーリー警察副部長という、目端が利く小人物を作り、その心境の変化によって、街の人間の意識を作り上げる。
この流れは、ベインによって支配され完全な無気力状態に陥っていた街の人々が希望を見いだし、支配に対する反抗と圧政からの脱出という、反抗の物語として捉えられる。
バットマンはいなくなった。しかしヒーローは消えはしない。市民の心に正義を求める心があるならば、そこに再び新しいヒーローが現れるだろう。とするもの。
このフォーマットは実は結構なじみが深い。日本では、いわゆる平成ウルトラマンシリーズは全てこのフォーマットに則って作られている位だから。
この形に持っていったか!と言うのが、特撮ファンにとってはなんとも嬉しいところ。少なくとも新しいウルトラマンはハリウッドにおいても完全肯定された気分にされた訳だから。
ただし、これは特撮ファンに取っては限界でもある。これがあるから私はこの作品を肯定せざるを得ず、そこから一歩踏み出すレビューが書けない。なんせこれを否定したら、私のこれまで培ってきたものが全部否定してしまう訳だから。
それでも敢えてこの作品について語るのであれば、この作品からもノーランの挑戦心がビンビンに伝わってきたと言うことだろうか。フォーマットは確かに特撮というかヒーロー作品の最後に則ってはいるものの、そこから逸脱させている部分も多々存在する。
まず、ここまでの二作によって成長してきたブルースに、もう一段階の成長を描いて見せた。正義のためなら自分の楽しみはおろか命まで差しだしても構わないと『ダークナイト』で行き着くところまで行ってしまったヒーローの姿があったのだが、そこに新たなる修行を加えることによって、それを変質させてみせた。命を捨てることによって、生きる事を選択させたのだ。ここにおいてこれまでの自分自身を超える物語を見せた。この部分があるため、『ダークナイト』で決まっていたと思われたラスト、つまりバットマンの死で物語が終わるという形から脱却させてみせた。あのラストシーンは、実は三部作を通して一つ一つブルースはきちんと成長していることを示している。
実際あのラストはノーラン自身のこれまでのフィルモグラフィから見ても異色。例えば『インセプション』のようにあそこはアルフレッドの驚いた顔を見せてブルース自身は見せないのがノーランらしさのはずなのに、敢えてあそこでブルースの顔を出してみせたのは、すべきことをして、後は姿を消すことも一つの成長として描いたということになるのだ。
形に囚われることなく進歩していくこと。その中できっちりと個性を見せているノーランという監督はやっぱりすごい人だと思う。
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