[コメント] バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)(2014/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
映画ファンというのは何通りもあるけれど、自称「ファン」で陥りやすいのが、映画の技法最上主義になってしまうこと。とにかく変わった手法やカメラワーク、編集こそが映画の醍醐味と思い込み、そういう映画を一番だと思い込むこと。物語に至っては、わかりにくいほど良く、そこにメタフィクションやらフラッシュバックやらをふんだんに取り入れたものを好むようになってしまう。
確かにこれは一つの映画の楽しみ方ではある。でもいくつもの楽しみ方の一つとして考えるべきもので、そればかりを追い求めると、小難しい理屈ばかりをくどくど述べるばかりの嫌われ者批評家になってしまう。
本作は、そういったこじらせきった技法をもの凄くたっぷり味わえる作品である。その技能について、いくつか項目を分けて考えてみよう。
1.本作は徹底した長回し映画である。
映画の技法とは基本的にはカット割りである。このことは、映画の黎明期からのセオリーで、いくつもの角度や時間から撮影されたショットを一連の流れに乗せることによって、映画の画面内にいくつもの効果を作り出す事が出来る。だから映画は常に編集というものを重要視してきた(小津安二郎の映画はその典型だ)。
だが、その流れとは別に、一本のフィルムを丸々使い切って、切れ目なしの演技を見せるという技法もまた存在する。それが長回しといわれるものである。前述したカット割りとは対極にあるが、いかにカメラを移動させ、どんな角度から誰を写すか。どうカメラを振って画面に収めるか、等々これまた芸術的センスが問われるために、割と好まれる手法でもある。
そして本作は、この矛盾した二つの技法を一緒にやろうとした作品と言える。
普通の撮影ではこの二つは絶対に一緒にはできない。だが映画撮影技術の向上は、それを可能にした。
本作は一見全く切れ目が無い長回しのみで作られているように見える。それだけでも希有な作品で、これまでそれをやったのはヒッチコックの『ロープ』(1948)くらい。当時はフィルムの長さが決まっていたので、フィルム切れのところで暗闇か光を写し、そこでフィルムの交換をするという作りをしていた。つまり、フィルム一巻使い切るまでは長回し撮影をしなければならなかった。それに対し、撮影がデジタルになったことと、ブルーバックの撮影が出来ることで、この作品は非常に細かくカット割りを行えるようになった。部屋を移動する度に実は撮影を停止させることが出来るので、それが長回しをしながらカット割りをするという芸当が出来てしまった。これまでにもいくつかの作品でそれは使われている方法だが、一本丸々長回しと思わせてそれをやってしまった最初の例となる。
本作がオスカーを取れた理由の第一の理由はここにある。この作品を観た映画人の多くは「この手があったか!」と思っただろうから。
2.本作は超能力を演出の一つに使っている。
オープニングシーンでいきなりリーガンが空中浮遊しているシーンがあるが、それが実に自然なので、観てる側としては最初にぎょっとしながら観始め、その後リーガンが怒りを発する度にその能力を発揮するシーンを見せられることになる。
この部分なのだが、敢えてこれをCGとかに頼らず、手動の特撮でやったというところが、「分かってらっしゃる!」と思わせてくれる。
映画ファンの矛盾ではあるが、CGとかで最先端の映像美を観たいという思いと共に、あくまで汗を流して手作りで作ってくれる特撮にどうしようも無く惹かれていく。そもそも「よりリアルに。本物と間違えさせよう」ということから始まった特撮が、今やいかにも特撮を使ってます。という手作り感覚の方に惹かれてしまうのは大いなる矛盾。しかしその矛盾を敢えて見せられると、やっぱり優しい気持ちにさせられてしまう。
3.本作はメタフィクションである。
正確に言えば、これはメタフィクションでは無く、揶揄に近いのだが、本作の主人公がマイケル・キートンであるというそれだけでニヤついてしまうのを止める事が出来ない。なんせ『マイ・ウェイ』というヒット作もあったとは言え、キートンの最大のヒットは『バットマン』(1989)のバットマン役なのだから。それを敢えて『バードマン』という過去の映画の栄光にすがるキャラにさせてしまうなど、観てる側からすれば自然と頬がほころぶ。特に後半、ストレスのあまりに実体まで現れてしまったバードマンが耳元で囁いてるとか自虐描写があまりに深く、それだけに観てる側からすれば、にやつかざるを得ないだろう。
4.映画と舞台劇の演出を意図的に使っている。
本作の設定はかつての映画スターがブロードウェイでの再起を賭けるというものだが、映画の都ハリウッドと舞台の本場ブロードウェイにはいくつもの協力関係と同時に、大きな温度差がある。それは西海岸にあるハリウッドと東海岸にあるブロードウェイの違いではあるが、一本一本が生で演技者の技量を求めるブロードウェイ視聴者は、リテイクを前提とする映画に対する見解が異なると言う事。それが端的に表されるのが劇中ブロードウェイの批評家が主人公を徹底的にけなすシーンとなってる。なんでブロードウェイ批評家は映画人を目の敵にするのか、それが分かってるとやっぱりにやつける。
ただ、それだけでない。本作が敢えて長回しを使っているのは一発撮り(と思わせる手法)で、より演出を舞台劇に近づけるために意図的に行っていること。これはつまり舞台劇のバックステージものの舞台劇を演劇的な演出で映画として撮影するという、実にややこしいことをやっていることとなる。
…と言う事で、そのどれを見ても、本っ当にこじらせた映画作りをしてるとしか思えない。正直、イニャリトゥ監督、自分自身に酔ってるとしか思えないようなこじらせ過多なんだが、それでちゃんと映画になってるところが小憎らしい。
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