[コメント] インサイド・ヘッド(2015/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
これまで人の心の動きを大きなテーマにしてきたピクサーだけに、テーマとしては面白く、一人の少女の心の成長を扱ったストーリー運びも手慣れたもの。何故人の心には様々な感情があるのかと言うことを子ども達に伝える事も出来ている。総じて言えば高い評価を与えられるだろう。
しかしながら、私としてはちょっとのめり込むことは出来なかった。
簡単に言えば、主人公のヨロコビがどうにもチグハグな存在で、感情移入が出来なかったという点。
ピクサーのアニメは一つの法則がある。
一つは主人公が明確であること。ピクサー作品には多数のキャラが出てくる作品が多いが、ほとんどの作品では一人が中心となり、その心の動きに観客を同調させることで物語を作り上げている。意外にこれは重要で、主人公キャラが考えている事に、観ている側は時に頷いたり時に反発したりして、主人公の感情の動きにつきあわされることで、キャラに同調していく。
そして、二つ目として、その主人公キャラはあらかじめ某かのプライドを持っていると言うこと。それにしがみついて自分を保たせる事が出来るもので、アイデンティティと言い換えても良い。あらかじめ分かりやすい形でプライドを提示し、物語中に一度打ち砕いてしまう。そこからが本当の物語になっていき、一度失われたプライドを再構築するのが作品の骨子となっている訳だ。
今まで培ってきたアイデンティティを否定され、新しいアイデンティティを探す過程を冒険として描く。心の中の進歩と物理的な冒険が見事に噛み合うからこそ、観ていて安心できるのだ。時には新しく構築したアイデンティティを更に打ち砕くこともするが、それでも負けない主人公のポジティブさが応援歌にもなってくる。
これは別段ピクサー作品に限ったことではなく、多くの映画にも共通することなのだが、ピクサーの場合、それを狙ってやってるのが特徴で、その法則に則った上でこれまでの数多くのヒット作を作り上げてきた。
そして本作の場合、本来的に言うならば、ライリーがまさにその渦中にあるはずである。故郷ミネソタでアイスホッケーで選手になってたり、仲の良い友達と一緒にいたりすることがライリーにとっては最初のアイデンティティだった訳だが、引越と、よそ者意識に苛まれてアイデンティティがボロボロになってしまう。それを家族の愛情によって支えられ、新しいアイデンティティを作っていく。まさにピクサーの法則そのものを体現している。
ところが、本作の場合は主人公がライリーではない。ライリーの一部のヨロコビである。そこでチグハグぶりが出てきた。基本喜びの感情を司るヨロコビはアイデンティティを壊されることがない。壊されたとしても深く考えることが出来ないためにすぐに立ち直ってしまう。
全てをプラス思考で突っ切ってしまうヨロコビの姿には、観ている側が感情移入しにくい。落ち込むべきところで落ち込めない物語展開が、どうにも落ち着かなくさせてしまう。
その落ち着かない気持ちのまま映画が終わってしまった感じがあって、これまでのピクサー作品のように、鑑賞後にどっしりした満足感を得る事が出来なかった。そこが残念と言えば残念だし、落ち着かないまま。
あと、ドリカムの主題歌を映画の前に流したのは間違い。何の基礎知識もないまま「愛しのライリ〜」とか力一杯歌われても、ちょっと引くよ。映画終わった時に流せばまだ違和感無かったんだろうけど、なんで映画の前に(しかも『南の島のラブソング』の前に)流したんだろ?ついでに言うなら、更にその冒頭で監督のピートが出てきて、「素晴らしい作品が出来ましたよ」とか言うのも鬱陶しい。
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