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[コメント] ジョーカー(2019/米)

ヴィランを描いてるはずが、何故かヒーローを描く話になっていた。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 バットマンに限らないが、アメコミの大部分は複数の作家によって描かれるため、同一キャラでも作家によってだいぶ違った描かれ方をするのが特徴となる。そのためジョーカーもシリーズ毎に描かれ方が違っている。

 コミックではジョーカーになる前の人間時代は複数描かれており、場合によっては本名さえも違っている。映画でもティム・バートン監督のバットマン(1989)に登場するニコルソン演じたジョーカーはジャックという名前だし、本作のアーサーとはジョーカーのなり方も全く異なっている。

 そのどれが正しくてどれが間違っているかではなく、そういう謎めいたキャラクターであると受け取れば良い。

 だから本作のアーサーというキャラもジョーカーの要素の一つである。

 それを飲み込んだ上で本作について語っていこう。

 本作はジョーカーの誕生を描く話となるが、肝心のヒーローとなるはずのバットマンが一切登場しない。バットマンが現れるのはもっとずっと後なので、それは当然だが、ヴィランの誕生に際し、一切のヒーローが登場しないというのはかなり異色である。

 これはよく言われることだが、テレビシリーズにおいては、ヒーローは単独では存在しない。悪を行うヴィランに対抗するために正義の使者としてヒーローが存在するためだ。ヒーローがヒーローたり得るためには、前提条件として悪を行う存在が不可欠となるのだ。

 一方悪は単独で存在できる。それがヒーローに倒される前提であったとしても、ヒーローに先行できるのは大きな強み。そこに目を付けたのは本作のユニークさと言えるだろう。

 ではどんな誕生を描くのか。

 ヴィランは基本的に悪の存在だが、その悪を生み出す過程は様々。何かの目的のために莫大な金が必要なので、手っ取り早く金を得るためだったり、破壊そのものに快感を覚えていたり、世界征服という妄想的な思いを抱いたり、あるいは理屈はなく、ただそうしないといけないという使命感からなされる場合がある。

 そのどの要素もジョーカーらしいモチベーションだが、本作はそこにもう一つ違う要素を入れてみた。

 それは、底辺の人間のために立ち上がる革命家としての悪である。

 本作ではアーサー自身が精神障害を持っており、多量の薬を服用しているし、カウンセリングにも通っている。その母も明らかに精神的には病んでいたし、そんな母を甲斐甲斐しく面倒を看ていた。稼ぎはアーサーがしている慰問と宣伝活動だけで、とても侘しいギリギリの生活である。

 これは何もアーサーに限っていない。ゴッサム・シティに住む人々の現実である。巨大産業を保有するウェイン財団に関わる人々は多くの金を得ているが、多くの人々は貧困にあえぐ。教育水準も高くないらしく、若年層の犯罪が横行し、警察もそれを取り締まろうとしていない。選挙活動を始めたウェインはテレビでは弱者救済を訴えるが、現状シティは福祉の予算を次々に打ち切っている。そして娯楽と呼べるものはテレビくらいしか無くなってしまってる。

 そんなやるせない社会を背景に、貧者のストレスは高まっており、爆発寸前に来ている。何かのきっかけがあれば、いつでも暴動が起きる可能性があった。

 彼らが求めていたのは自分たちを導いてくれるリーダーでありヒーローだった。正確に言えばヒーローである必要はなく、ただ爆発を導くきっかけがほしかっただけ。

 アーサーは自分では全く自覚していなかったが、初めて自らの意思で殺人という一線を越えてしまったためにダークな意味でのヒーローとなっていく。

 アーサーがなったジョーカーというのは、元々がヴィランではなかった。むしろ貧しい市民の代弁者としてのヒーローだったのだ。

 ヴィランの誕生を描く話のはずが、何故かヒーローの誕生になってしまっているのが本作の面白いところだ。

 だがこのヒーロー像はかなり危うい。ここにおいてアーサーは祭り上げられたヒーローへと変貌する。それは本人の望まぬ形でのヒーローだし、それにこの場合、彼は象徴的存在である。

 この象徴的存在というのが本作におけるジョーカーの最大の特徴だろう。本人の持つ悪のヒーロー性ではなく、他の人たちから祭り上げられた存在であり、悪の象徴ではあっても、アンチヒーローやヴィランではない。実際ウェイン家を襲ってブルースの両親を殺したのはアーサーではなかった。ピエロの格好をして悪を成す存在がジョーカーと呼ばれるようになるのだ。

 これは非常に現代的視点である。特にネット世代には、一つの指向性を与えられた緩やかなネットワークを形成する。このようなものをアノニマスと言うのだが、ここでのジョーカーはまさに象徴的存在で、誰とも分からないぬ構成員の行為がアーサー=ジョーカーの犯罪にされてしまう。結果、ジョーカーという虚像だけが大きくなっていくことになる。ジョーカーは世界中のどこにでもいて、いつでも爆発する用意できているというのは結構恐怖となる。

 このストーリー展開は、スコセッシ監督の傑作タクシードライバー(1976)およびキング・オブ・コメディ(1983)の2作品に共通するものでもある。作り手であるフィリップス監督自身もそれを意識していたのは確かで、だからこそデ・ニーロの起用なんて事をしたんだろう。

 それに加えてアノニマス的な先導者としてのアーサーの姿はネットワーク(1976)にも通じる。完全に70年代の価値観で作られているのも特徴的だ。

 この70年代映画を強引に引用するならば、本作は社会福祉の必要性を端的に示しているものでもある。社会福祉は単なる弱者救済のためじゃないのだ。市民生活を安定させるためには必ず必要だと言うことをしっかり示してくれている。

(評価:★4)

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