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[コメント] 異母兄弟(1957/日)

カタルシスの低さは狙ってのことか?
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 虐げられた女性の自立に至る道を描いた作品で、日本版「人形の家」とも言える。しかし、その自立というのが最後の最後になってようやくなされるため、本当に爽快感のない話になってしまい、観ていて流石にきつい。

 しかし、1950年代。ようやく日本が人権意識に目覚めた頃の話として考えるならば、啓蒙的な意味では本作は大きな足跡を残した作品とも言えるだろう。

 ここに描かれる男と女の関係は極端な描き方はされているとは言え、男の弱さと女の強さというのも同時に描いている感じがする。実際日本は母系社会と言われるだけあって、精神的には誰の心にも母という存在に負うところが大きい。父というのは経済的に家を支え、そのため大きな顔が出来るが、それは結局自己満足でしか無く、表面的には夫に従っている母こそが本当の意味で家を支えている存在である。

 そういう意味でここで描かれる範太郎は本当に日本人の父親である。過去の栄光にしがみつくだけでありながら、自分が国に対してどれだけ重要人物であるかを強調し、事ある毎に家長である自分がいなければ家族は生きていけない事を言い続ける。これは精神的にも家族を支配し続けねばならないと言う役割を自分に強いているためだった。だが敗戦と息子たちの死いう事実を目の前にした時、アイデンティティをすべて失ってしまう。男とは、まさしくそういう生き物でしかない。しかし、本来自分に強いていた役割、つまり「自分は家長である」という意地だけが残った結果、単に威張り散らすだけの何の役にも立たない人間に成り下がった。

 対して母となった利江は範太郎に従ってばかりに見えながら、家をしっかりと守り、たとえどんなに家を取り巻く環境が変化しても、やはり母であり続ける。ここが本当の強さと言えるのだろう。

 だから最後の自立シーンがなくても、その強さはしっかり描かれているのだが、最後にあの言葉があって、これまでも強かった母が、自立を目指したときに、本当に人間として強くなるのだ。という時代に即した主張が意味を持つようになる。元々が強い存在が、自由を手に入れたとき、どれだけ強くなれるのか。そんなことを考えさせてくれる作品でもある。

(評価:★3)

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