コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 神々の深き欲望(1968/日)

欲望をストレートに描くのが今村流。そしてその描き方はついに「神々」にまで及ぶ。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 近代化と伝統を守る事。相反するこの二つの方向性によって文明は進んできた。因習に囚われることを「前近代的」と断定するのは乱暴にせよ、あまりに進みすぎる近代化も怖いところがある。ようやくそんな事が考えられるようになった時代に本作は製作された。そしてここにはその両極端さがまざまざと演出されているのは確かな話で、日本の社会に根付く原始的な信仰や、日本民族の根源的な性の問題、資本主義社会の矛盾をえぐり出す事に成功した作品。

 その事をモティーフにレビューを書いていくつもりだったのだが、なんかそれは、考えれば考えるほどにずれていく気がした。本作には社会的な問題は確かに存在はする。しかし、本当にそれが今村監督の目的だったのだろうか?

 少なくとも、今村監督の立場は、近代化礼賛で差別社会の撤廃でも無ければ、近代化によって汚されてしまう文化を擁護する立場にもないと思う。画面に現れるのはその両極端な姿であり、どちらかに荷担しようと言う演出はあまりなされていない。むしろこれを観ている側が勝手に受け取ってくれ。と言う投げ出し的な感覚さえ覚えてしまう。  しかし、そうなると一体何が狙いだったのだろう?

 そう考えた時にタイトルに気付いた。『神々の深き欲望』…

 日本映画の偉大な監督の中で、人間の欲望を描くと言う意味において、今村監督は抜きんでた監督である。監督の作る作品には数多くの欲望をモティーフにしたものがある。しかも、それらの欲望は決して秘められることがない。それが性に対するものであっても、富に対するものであっても、とにかくストレートに、開けっぴろげに描かれていく。

 あるいは今村監督、文明や文化というのも「欲望」というくくりで考えているんじゃなかろうか?

 性的な意味での欲望を島民の暮らし、就中根吉とトリ子の関係において、そして金銭的な欲望を刈谷を通して文化的な暮らしとして。そしてその二方向の欲望の結果とは…と考えていたのかも知れない。

 結果として文明化を押しとどめることは出来ないんだけど、しかし、古き神々の欲望は決して無くなることはない。それが良いか悪いかはともかく。今村監督は多分最初から結論出来るものじゃない。と言うスタンスで作ってきたんじゃないだろうか?

 3時間を超える長丁場の後で、あの釈然としないラストシーンには賛否両論あるだろうが、逆に視聴者に考えさせる。と言う意味ではかなりどしっとした感触を与えてくれる作品でもある。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。