コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 世界大戦争(1961/日)

何とも凄い作品だが、惜しむらくは、もうちょっと世界的に認められても良さそうな作品だと思います。『博士の異常な愛情』よりも3年も早かったんだよ。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 原水爆の危険を映画で前面に出した名作として真っ先に挙げられる作品と言えば、やはり『博士の異常な愛情 あるいは私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964)が挙げられるだろうが、それから遡ること3年前。日本で本作は作られた。結果、日本のSF映画史上において、本作は最高の売り上げを果たした作品の一つとなり(1961年邦画興行成績10位)、世界的な映画史においても特異な位置づけを持つ作品となり得た。

 本作は映画として、そもそも物語として観る限りは、非常に中途半端な作品である。定式に則ったオチは付けられず、ストーリーの根幹をなす部分が政治的部分と日常的部分に完全に分離しているので、二つないし三つの映画を無理矢理一つにまとめてしまったと言う感じが強い。しかも、本作は伏線も何も無し。ただ最後の爆発だけの為に淡々とストーリーが紡がれる。敢えて極論を行ってしまうと、本作は物語としては、実は破綻してる。それに根本的に本当の見所はたった一カ所しかないし、しかもそれは観ている側はみんな分かっている。

 しかし、である。本作の場合、それは失敗ではない。それこそが実は狙いであり、本作の特異性となっているのだから。

 構造的に考えてみると、この作品は三つの流れが存在している。

 一つは純粋に国際政治的な部分として。世界各地に頻発する紛争が核大国に波及するのではないか?と言う恐れが、いわば上の立場から見られている。政治の世界とは大変ドライなもので、善意とかは全く入る余地がない。彼らの思いとは、自分の国が安全であること。ここに尽きたわけだ。通常兵器の戦争であれば、対岸の火事で済んでしまうため、見ずに済ましておけるものが、核戦争になると、そう言うわけにはいかない。世界各地から自分の国が狙われているのだし、どう転んでも自分の国は影響を受けないわけにはいかない。だからこそ、嫌々ながらでも会議はしなければならない。どんな嫌いな人間でも、対等に話さねばならない。しかも、その状況下においても、自国の利益のために働かねばならない…非常にストレスがかかる世界だ。結局なんだかんだ言っても金の話になってしまうのだから。その辺のどろどろした部分が多少の誇張はあるものの、しっかり描かれている。利権に群がる彼らの姿は、現実の国の姿の戯画である。  もう一つは、主人公が特定できないが、現場で働くものの群れである。彼らは政治的な思惑など関係が無く、自分の責任において、守ろうとする。何せたった一発の誤射で世界が滅びるのだ。世界をその背に背負っている人間の話だ。彼らは表舞台に出ることもないし、誤解ばかり受ける存在かも知れない。しかし、その責任感たるや大変なもので、そのような名も無き英雄達の話となっている。こういうのって、私は大変好きだ。  そして最後の物語が、そう言った政治的にも、責任を負うものとも無縁の、一つの家族の物語となる。フランキー堺演じるタクシー運転手や宝田明演じる高野など、普通の庶民と比べ、ほんの僅か情報を得やすい立場にあるとしても、やっぱりどこかにいそうな普通の家庭であり、そしてごく当たり前の恋人だった。この部分を出したことが、この作品の肝というか、最大の売りとなったことは間違いがない。庶民故に無知で、自分の生活とか、幸せとかを大切にする一方、ほんの僅か世事に長けているために、空気の変化に敏感に反応できるという絶妙の立場だった。

 ただ、これらの三つのストーリーは分かるとおり、全くお互いに共通点を持たない。それぞれが独自に物語を進行させている。これは本来バランス悪さと考えられるところ。しかし、これらは互いに関連を持たないまま、たった一つの結末に向かって疾走する。

 そして最期の一瞬、地球の最後というショッキングな終わり方で、実はこれら三つの物語はようやく一つとなる。

 それを可能としているのは、実は観客がラストを知っているというのが前提だ。と言う事に他ならない。通常どんな作品であっても、ラストシーンをいかにも分からないように仕上げるのが映画監督の手腕であるに拘わらず、本作の場合、タイトルがそのまんまで、ポスターを見ても、完全にオチが分かってしまっている。

 オチが分かってしまうと言うのは、映画としては失敗のはずだが、本作の場合、全く違ったベクトルを用いることにした。つまり、その過程をドラマとして捉えることで。

 ここにおいて、三つの別個の物語がきちんと一つの映画として作られ得た理由がある。映画にはこんな作り方もあるんだと感心することしきりだった。

 物語の面で言うなら、最終過程が決まっている以上ストーリーで見せることは出来ず、自然とドラマの連続となる。ここに手を抜いていないのが何より本作の良さ。SFは子供のものだからなんて考えはない。徹頭徹尾、大人が観て楽しめる。背筋を寒がらせる。そして大人が泣けるような作品を目指していた。だから出演者もヴェテランどころを揃えたし、ドラマを彩る脚本も、ベタであっても決して手は抜いてない。いくつかの卓抜なアイディアも使われていた。

 特にラスト近く。モールス信号でささやかれる愛の言葉。無機質なカタカナで「コーフクダッタネ…」と繰り返される言葉が、無機質故にこそ、悲しみを誘うし、最後、洋上にいたため生き残った面々が日本に戻ろう。と行った時、絶妙のタイミングで出されるコーヒーの描写だったり。

 確かにこれは観終わって気持ちが晴れ晴れするような作品ではないし、逆にストレスが溜まるかも知れない。だけど、そうすることによって本作はその存在感が際だっている作品だとも言える。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)ロボトミー[*] おーい粗茶[*] すやすや[*] sawa:38[*] 荒馬大介[*] kiona[*] ペンクロフ[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。