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[コメント] チャップリンの 黄金狂時代(1925/米)

笑いの中にぞっとするものを感じさせてくれる作品。時代は確実に移り変わっていく。その中でスターであり続け、人に笑いを与え続けたチャップリンという人物の苦悩というものが垣間見える。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 本作はチャップリンの代表作とも言える一本で、山高帽、ドタ靴、きつい上着にだぶだぶのズボンといういつものスタイルで登場する。しかし、それまでチャップリンが作ってきた短編の数々とはまるで異質なものも感じさせる。

 笑いというのは人のエゴを前面に出すことにより、本物となっていく。つまり、他人のエゴむき出しの姿を照らし合わせて笑い、そして自分自身の中に確かにあるエゴに対して軽く罪悪感を持たせる。特にチャップリンはそのバランス感覚が非常に優れている監督だったと思う。

 だがそう言う笑いは諸刃の剣でもあり、罪悪感を人に持たせすぎると、笑うよりむしろ怒りを覚えさせてしまうものだ。そのぎりぎりの所にあるのがブラックユーモアであり、チャップリンはその場所で観客の方に次々そう言ったものを投げつけてくる。笑っている観衆は(勿論私も含め)自分自身のことを笑っていることに気づくわけだ。

 本作はそれを突出させたかのような作品。特に極限状態における人間模様についての描写は凄まじく、笑いながらも、ぞっとするものをその中には含んでいる。何せ本当に飢餓の極限状態になったとき、人間が食べ物に見えてしまうと言う描写まである。簡単に考えつくものじゃないよ。笑いに紛らわせているけど、カニバリズムまで突っ込んだ題材はあまりにブラック。

 ところで、本作はもう一つ大きな内容を含んでいるように見受けられる。まず冒頭でチャーリーが気付かないうちに熊が出てくるシーン。普通だったらここで熊に気が付いて慌てて逃げる。と言う展開に持って行くはずなんだけど、ここでは本当に気が付かないまま。ここで「あれ?」と思った。いつもと違う?何か意味が

 …それで考えてみる。ゴールド・ラッシュというのは賭の要素が強いのだけど、運というのは良い方向に行くだけじゃない。ほんの偶然で、金を目の前にして死んでしまうことだってあるのだ、と言う運命を描いているようにも思える。成功するとかしないとかも含め、人が生きていると言うことそのものが偶然であって、どれほど儚いものか。そんな突き放した部分があるんじゃ無かろうか?

 本作についてチャップリンは相当な覚悟をもって臨んだらしい。1910年代の多くの短編を連作することによって大スターとなったチャップリンも、私生活についてあるいは役者生活について色々悩むことが多かったらしい。本作ではそれは自分のトレードマークである靴を食べてしまうと言う所で表されている。片方の靴を食べてしまったため(あれは本当に靴を食べていたらしい)、中盤からは方靴で登場している。これはただなくなったから。と言うのとは違っているのではないか?あるいはそれまでのトレードマークを捨てようと言う意思の表れだったのかも知れない。

 事実、彼はこの後の映画はこれまでと少々タッチを変えるようになっていき、それまでの多作を取りやめてしまい、極端な寡作へと移行していく(それぞれに質は高いんだけど)。 

(評価:★4)

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