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[コメント] X-MEN:ファースト・ジェネレーション(2011/米)

欠点としてではなく、この映画を見て考えさせられたこと。
イリューダ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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MCUの方はすっかりファンになっていたが、なんとなく乗り損ねてしまっていてこれが初のX-MENシリーズになった。キャストのハマり具合、アクションのキレ、台詞回しのセンスなどさすがマシュー・ヴォーンという出来で、十分楽しませてもらった、おそらく原作やシリーズのファンならここはニヤリとさせられる演出なんだろうな、というシーンがいくつかあったけど、基本的には一見さん大歓迎な作りで、この作品単体で完成度の高い作品だったと思う。

それとは別に。この作品のミュータントと人間の関係が現実のメタファー、具体的にはアメリカにおける黒人差別と公民権運動の歴史を中心とした、人種差別との戦いを重ね合わせていることはまずまちがいない。おそらくこの映画だけでなく、原作からそういう思想は受け継がれているのだろう(私は前述の通り門外漢なのでネットでざっと読んだ記事からの推測だが)。しかしこれは作中でエリックも言っていたことだが、ミュータントは能力としては完全に人間を超えている。それはもはや人間同士の個体差のレベルでは語ることの出来ない圧倒的な差である。この場合、人種差別を否定する理路、すなわち普遍的な人権思想という虚構(人権思想は人為的な発明品という意味で虚構である。無論だからといって軽視されるべきものでもないが)はそのまま有効性を持ちうるだろうか。よほど過激なアニマルライツ原理主義者でもないかぎり、人類は自分たち以外の種に自分たちとまったく同等な権利を認めることはない。その意味で、クライマックスで米ソの首脳が人類に敵対する可能性と、人類を凌駕する能力を持ったミュータントたちを駆除しようとしたことはまったく正当である。少なくとも町にさまよい出て来る野生の熊を駆除しようとする人々と同じくらいには。そして、それに対抗して人間たちと敵対し、場合によっては人類を滅ぼして自分たちの安全な社会を作り上げようとするエリックの思想もまた正当である。これは善悪の問題ではなく、立場の違いなのである。

ところが、作品の製作者および観客が「基本的に」依拠すべきと想定される立場、チャールズの思想がはなはだ曖昧なのだ。「立派な人間もいる」それはそうだろう。しかし自らのグループ(人種、あるいは生物種の違いであるかはとりあえずおいておく)の自由と安全を、現在の主流派の中の「良心的な人々」に期待するのは、非常に危険ではないだろうか。人種は長い時間の中では融和できるかもしれない。黒人種と白人種、黄色人種の差などは所詮は人類の歴史の中で偶然生じた細かな身体的差異にすぎないから。しかし人類とミュータントの差が不可逆的で決定的な進化による差異であったら、それはもはや社会的な文脈における「差別」などでは語ることの出来ない話になるかもしれない。

もし人類とミュータントの差のように、人種間の能力の優劣が明白に証明されたら―。平均的に言って黒人が身体的能力において他の人種よりも優れていることは周知だが、より決定的な能力差が人種によって顕在化したら。幸いなことにナチスによる優生思想をはじめとしてそういった差を証明しようとする試みはほぼ完膚なきまでに失敗しているが、もし人類の中に埋めがたい能力差を持つグループが発生したとしたら、我々は科学的事実と人権思想のどちらの側に立つのだろうか。そんなことを考えさせられた。

(評価:★4)

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