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[コメント] サマリア(2004/韓国)

ギドク監督に感じるある種のもどかしさと、勝手な質問をいくつか。
くたー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画的な記号を意識的に用いる監督、という印象が個人的にある。初期の作品においては、その記号があからさまに「記号然」として置かれていることがあり、時として物語から微妙に浮き上がってきてしまったり、一人よがりであったりする印象があった。

しかし、作品を重ねるごとに記号による説話がこなれはじめ、比較的近作の『春夏秋冬そして春』においては、見事にその成果が実を結び、表向きのストーリーに平行して、通奏低音のように「記号による説話」がしっかりと噛み合い、寄り添っている。あの作に関しては、個人的には「見事な記号による映画」と言い切ってしまいたい。

そして本作。一見したところでは、その記号はややあからさまな主張を潜めてきている印象を受けた。そのかわりに、背景に溶け込みながらも、それらの記号が時折エコーのように、その存在と意味を伝えてきている。あくまでも密やかに。その表現はさらに熟れてきている、そんな感じがした。

しかしそんな風に、表現ばかりが熟れてきている一方で、依然としてこの人の語りにはある種のもどかしさを感じてしまう。それが何かをいろいろ考えた揚句、やはり背景にあるもの、前提とするものに隔たりがあるから、という理由しか思い浮かばない。もっと平たく言えば、社会背景や宗教観といったもの。説明されても感覚的によくわからない。他の韓国映画を観ても、そこまで背景の違いが気になることはないのに・・・直接的な説明を排した作りであればこその弊害なんだろうか。個人的には非常に謎。

と、良く理解もしてないクセしてしゃあしゃあと5点なんぞ付けているのは、道筋は理解半ばであっても、底辺にあるテーマ(みたいなもの)に確かに心が共鳴するから。人々が抱える「罪」に対する懊悩。そんな人々を見つめる、慈しみに満ちた視線。それは確かに琴線に触れるものがある。

とりあえず第三部に限って言うと、個人的にはこのような物語として受け止めている。ある意味この映画の主役級の存在である「車」。それは父から娘に受け渡されたもの。娘のことが全く理解できずに迷走を繰り返した父が、その夜嗚咽に肩を震わす娘の姿を間のあたりにして、娘もまた自分のように己の罪から逃れられずにいることを知り涙する。そして迷走から抜け出す。己の罪は己の罪でしかないのだ。誰に背負わせることも出来ないのだ。その贖罪への道のりを娘に託す意味を込めて、車のハンドルを握らせる。娘にはまだ分からない。依然として無様に煙を吐きだすのみで、己のぬかるみに嵌ったままだ。しかし父は離れても静かに遠くで見守ることだろう。自らの手で櫂を削り、父が託した舵の庇護に、静かに一歩を踏み出す日がくることを・・・。

ともあれ、謎の多い監督だ。しかし表現と同じ位語りが洗練されたところで、魅力がさらに増すかといえば、どうなんだろう。根本の部分は伝わってるワケだし、かえってその熟れた表現とある意味ぶっきらぼうな語りのギャップが面白いのかもしれない。謎というのは、謎のままであること自体が魅力であったりするのだから。

※ここからは皆様への勝手な質問です。

●ギドク映画の女性像。必ずといって良いほど彼の映画に登場するのは、「母性」と「娼婦性」(ユスターシュの映画みたいだな)が一つの器に同居しているような女性。これって・・・マグダラのマリア崇拝とかと何か関係あるんでしょうか?その方面にはどうも疎いのでてんで的外れだったらスミマセン・・・自分で調べりゃ良いのですが、それよりも詳しい方に説明して頂いた方が良いかと思いまして。図々しいですが。

●ギドク映画の中に現れる数々の記号の中で、個人的に一番気になるのが「舟」。未だにしっくりくる解釈が見つけられません。ハッキリ言って水とか魚とか車とかよりも気になります。ああも繰り返し映画で印象的に使われると気になって仕方ありません。この映画にも確か「陸にうち捨てられた舟」が登場しましたよね。どなたか面白い解釈があったら、是非教えて下さい。ませ。

(評価:★5)

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