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[コメント] ぐるりのこと。(2008/日)

この映画で複雑に絡み合い解きほぐせない様々な「煩わしさ」を、日ごろ「どうでもいい」「関係ない」「面倒くさい」などという言葉で逃げがちな自分にとっては、特に前半はかなり痛い映画でした。
くたー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







日常に氾濫する大小様々な不協和、違和感。特に、カナオのように人々が気付かないことにまで気付いてしまう人間にとっては、様々な人間から生まれるその不協和の煩わしさは、時として雑音の域なのだろう。しかしそれは、カナオが整理や取捨選択が苦手というよりも、例えば証人の女性のアンクレットのように、物事の本質が一見些細なことにさえ宿っていることを本能的に嗅ぎ分けてしまうがゆえなのだろう。

さらには、一見穏やかな顔の裏で生い立ちに深い闇を抱えてるがゆえなのか、心情を言葉にして吐き出すことが苦手。そんな彼が嵐の夜、彼女を何とかしてなだめようとして不意に心のうちを吐き出してしまう。吐き出されたのは、彼と「世界」との距離のとり方。おそらくモヤモヤしたものが言葉というカタチになったことで、彼にも覚醒が始まったのだろう。そして、自分を分かって欲しいと思える存在にはっきり気付いたのも、この時だったのではないかと思う。

そして彼は、法廷画家という仕事を通して、表面だけでは窺い知れない複雑な「世界の見方」というものを模索していく。おそらく肝要なのはその「立ち位置」で、法廷と傍聴席という距離感、さらにはその距離感はラストのガラス越しの雑踏のシーンにもつながっていくワケだけど、渦中に身を置いて関わるのではなく、あくまで一介の観察者になることで、世界と折り合いをつける術を身につけたと言えばいいのか。正直翔子だけで十分、ということに気付いた時点で、世界との距離のとり方を意識したのではないだろうか。

とても印象に残っているのが、父親の容態に気をもむ親族を見ながら、「残念ですねぇ、死ななくて」と、飄々と述べるシーンで、なんとも気まずい笑いを生み出している。カナオというものを端的に表しているなぁ、と。それに加えて、汚職オヤジ3人組を風刺漫画的にスケッチするシーンなどを含めて、ふと思うのは、喜劇と悲劇の違い。物事を内容で見るのは悲劇で、カタチで見るのは喜劇なんてことを聞いたことがあるけど、ある程度距離を置いた上で生まれる滑稽さというのが、ことに覚醒後の後半部で顕著になっていた気がする。

そして、もう一つ特筆すべきことを言えば、男女の違いを踏まえた上での、その視線のニュートラルさ。監督のジェンダー云々ということに関連づけてしたり顔で語るわけではないけど、一組の夫婦それぞれが抱える問題の違い、どうしてそういうことで悩むのかということが、男の立場と女の立場でそもそも違いがあるということを、どちらに偏るでもなく公平に描かれている気がした。ざっくり言えば頭と感情の関係、優位性の違い、かな。そもそも、翔子はカナオのどういうトコロが好きかということはしっかり描写されている(兄夫婦との円卓を囲んだ食事シーン)のに、カナオがなぜ翔子のどういうトコロが好きなのか、ということはそこまでハッキリとは描写されていない。「好き」に理由をつけたがるのは男と女どっちなんだ、ということかと思う。

挿入されるショットが説明的過ぎるとか、時にエピソードの意図があからさま過ぎるとか、映画のつくりの上で少々不満がないでもないけど、心に残る映画ではありました。バブル崩壊からオウム事件を経て21世紀へ。バブル崩壊やオウムは不信の時代への序章だったのだろうか。そんな時代の中で、観察する眼というものがより重要になってきているのかもしれない。そもそも世界と言われているものの姿を、何のまじりけもなく見ることなど不可能なワケで。網膜や角膜という「装置」を距てて存在する世界と意識的に対峙する、それが本当に「見る」ということなのかもしれない。

(2010.4.13)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)おーい粗茶[*] けにろん[*]

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