[コメント] マッチ工場の少女(1990/フィンランド)
映画を見終った人むけのレビューです。
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カウリスマキ映画を見ていつも感じるのは、監督の斜めから見た視線(斜に構えた視線ともちょっとニュアンスが違う)。
登場人物は誰もかれも、ココロのうちを読み取らせないかのように無表情。さらに過剰な描写が一切ない。なので見ているコチラとしても誰に対しても安易に感情移入できない。仕方がないので客観的に全体の構造を見る。しかし映画全体を見たときの印象は、客観的とか冷徹さとかとはまた違った後味を残す。監督の視線がやや主人公たち側に傾いでいるように思えるのである。
しかも、普通そのように斜に構えた視線をとる場合、批判などを含めた皮肉っぽい味を見る側に感じさせるものだが、彼の場合はまるで客観を装いつつも、主人公たちに愛情を注ぐために、やや斜めから視線を送っているように思える。正面切っての愛情を注げない人間の、「はにかみ屋」の愛情といえばいいのか。
この映画でもそのスタンスは、少女の時折見せる涙、例の「花のシーン」、そして迷いのない復讐への行動に、それを感じることができる。しかも一見アンハッピーエンドに思えながらも、彼女の目的は半ば達成している。存在自体が社会と相容れない星の下に生まれてきた(と思いこんでいる)少女が、周囲から存在を無視され続けることに対して憤り、犯罪という行為でハッキリと存在の印を社会に刻みつけてしまっている。客観性を保ちつつも、監督のしたたかな肩入れのような気がする。
しかし微妙な肩入れゆえに、見ているコチラとしては身の置きどころに困る(笑)達成した爽快感を彼女が顔に出すこともなし、「社会に敗北した少女」といった、悲劇的な結末とは言いきれない味も確かにあるし・・・フクザツ。この監督の作品中、最も悲劇と喜劇のラインが微妙な作品に思える。おかしくって笑うというよりは、終始見ていて身の置きどころがなくて、笑うしかないのである。とてもしたたかな映画。しかし不純物が極力取り除かれた、結晶体のような完成度を誇る映画であることも確かである。
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