[コメント] ターン(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
※原作への言及がかなりあるので注意。
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「生み出しても残す事の出来ない」という試練を与えられた銅版画家を志す女の子が、その不毛さの意味を問い、新たに1人の「創作者」として覚醒していくまで。少なくとも原作には、そのようなテイストはあったと思う。
心血を注いで創り上げた作品が、一瞬にして何もなかったかのように白紙に戻ってしまう。芸術家にとってこれは、シーシュポスの岩運びにも通ずるような、過酷で不条理な試練ではなかろうか。
永遠に続くかのような変わりない毎日を、気の遠くなるような思いで過ごす彼女は、とある事件を契機に、再び創作活動に戻ることとなる。映画の中では大した扱いをされてないシーンだが、原作の中ではまさにここが話の「ヤマ」である。最も感動的なのはシュミレーションのデートや対面のシーンではなく、このシーンだと言っても過言ではない。
永遠に変わらないと信じていた世界に消滅、もしくは死という「有限」が持ち込まれた時、彼女は初めて現実の自分の「死」によって自らも消滅する運命にあることを知り、永遠なんてものは存在しないことを知る(不評ですけど、少なくとも原作の中では、あの男が出てくる意味はそういうことにあるのでしょう)。その時はじめて彼女は繰り返し続く一日の中での一瞬一瞬を、いとおしいものとして実感する。
そしてさらには、現実の世界では生み出し残せると思っていた自分の作品たちが、果てしない時間の中ではそれらもいつかは消えゆく運命にあることを悟り、彼女の中から一つの雑念が消えていく。作品に向かう一瞬、ノミを入れる一瞬、そして手の中のものが全貌をあらわす一瞬。それらの一瞬に感動し、無心にのめり込むうちに、作品とそれを生み出す道具と自らが一体になっていく。それはあたかも、シーシュポスが運ばれ転がり落ちる岩そのものとも言える存在になっていくのに、どこか似てはいないだろうか(シーシュポスの場合は「有限」を悟ることすら許されてはいないけど)。
そして原作の中で最も印象的なセリフ「不毛なのは《毎日》ではなく《わたし》だった」、これを削っているところに、映画化する側の原作に対する姿勢が見えたような気がする。さらに加えると、ラストは目を覚ます瞬間で終わらせて欲しかった。銅版画家としての「開眼」という意味を込めて。
とはいえ、映画はあくまで映画なのだから、原作と同じになる必要もないワケだし、シチュエーションを借りて切ないファンタジーに仕上げても、それはそれでアリなのかもしれない。しかし、それならそれを新たに作るにあたって、(原作では重要なものであっても)不必要なもの(例の「闖入者」とか)を取り除く作業もちゃんとやって欲しい。手落ちだと思う。
(2002/9/20)
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