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[コメント] トレインスポッティング(1996/英)

未来/過去(どちらも「自由」)からの/への疾走・失踪。姿は、どこにもない。どこにもないところ(=「現在」という座標軸)には、姿だけがある。 2007年5月19日ビデオ鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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オープニングの――というか映画全体を覆う――疾走感は特筆物で、壊れきった「ボロボロになった静脈」が脈打つような、刹那的な青春群像の圧倒的パワーが見事に表現されていて素晴らしい。

この作品の意図がどこにあるか、それをはっきりと認識できた自信は全くないが、恐らくそれはドラッグや自堕落な生活の肯定でも、まして否定でもなく――それでいて中産階級の「幸せ」な生活の否定でも、まして肯定でもない、常に中間点を疾走し続けている、まさにそれではないかと思う。

つまり、「若者」という「オトナ」でも「子ども」でもない中途半端なジェネレーションに託された唯一の特権は、まさにその(良くも悪くもな)モラトリアムという時間であり、そしてそれに伴う感覚(「全てを拒否し、また全てを肯定も“できてしまう”ような中途半端さ」)ではないかと思う。

冒頭で「幸せ」な中産階級の生活を否定し、ドラッグを肯定しながら、エンディングでは逆に前者を肯定し、後者を(やや)否定的に扱っては居るが、それは恐らく「ポーズ」ではないかと思う。それは、主人公が常に「コレが最後」と言いながら、結局ハマってしまうようなパーソナリティが象徴しているように、ラストのよくわからない疾走感は、幸福と脱却への疾走と同時に、不安が駆け足で迫ってくる、から元気な恐怖の再来の予言でもあると思われる。

そこには、どちらの生活にも、世界にも属さない「モラトリアム」の青年が突きつける両者の価値観の徹底的破壊のエネルギーが託されているのではないだろうか。白でもない、黒でもない――その中間をエネルギッシュに駆ける否定も肯定も出来ないどーしょーもない奴らに、理屈抜きの笑いが込み上げてきて、そのエネルギーに理屈抜きに感化されてしまった。

この映画が明確に否定しているのは、恐らく「退屈(な生活)」だけではないだろうかと思う。主人公(ユアン・マクレガー)がいとも簡単に、不動産のビジネスマンの生活を捨てて(捨てさせられて)、正道から道を外してドラッグ絡みの生活に舞い戻っていくことは、その象徴ではないか。しかし同時に、この「不動産ビジネスマン」の生活と、ラストで暗示された中産階級のよくある「幸せ」のパターンはイコールではないのだろう。

さて。

その「退屈の否定」の先に何が見えるか――それは「幸せな中産階級」か、それとも「ヘロインだけがある」生活か――それは僕には分からない。

ただ、90年代末という<100年ぶりの世紀末>に胸をドキドキさせていた若さだけが(その是非はともかくとして)そこにあったのではないか。

「偉くもないし 立派でもない  わかってるのは 胸のドキドキ  答えでもない ホントでもない  信じてるのは 胸のドキドキ  胸のドキドキだけ」

こんな歌詞を打ち出したハイロウズの『胸がドキドキ』という曲は、奇しくもこの映画と同じ96年に出された曲だ(原作はいつか知らんけど)。コレは果たして単なる偶然だろうか――それとも、世界中の「モラトリアム」なヤツらが「退屈」の向こう側に見た世界が、まさにそれだったのであろうか。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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