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[コメント] キング・コング(2005/ニュージーランド=米)

採点は迷わず5点なのだが、レビューは批判ばかり……。オリジナル版は「男のための男の映画」だった。たとえ男尊女卑と非難されようとも、あの映画が好きだ。
空イグアナ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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3時間の長尺で、オリジナルとくらべても倍近くあるというのに、全然退屈しなかった。採点は迷わず5点。しかし、どうしてもオリジナルとくらべてしまう。そしてやっぱり、オリジナルの方がずっと好きだ。ゴジラと同じで、「これが俺にとってのコングだ!」「俺が映画監督で、『キング・コング』をリメイクしたら、こんなふうにする!」というふうになっちゃうんだな。

古谷実のギャグ漫画『グリーンヒル』にこんな場面がある。バイクチーム・グリーンヒルのリーダー、岡ミドリは32歳。太った身体と、お世辞にも二枚目とは言えない顔で、全然モテない。ある日、プロポーズしようと女性を強引に旅館に連れて行く。あまりの強引さに気まずい雰囲気になる二人。そこで彼は「途中でケーキ買ってきたんだ。いっしょに食べよう。」と鞄を探るのだが、鞄から一冊の本が落ちる。表紙には「男の求婚 108の術」帯には「オスたちよ今、野生に学べ」 場の雰囲気はさらに悪くなる……。

モテない男が、モテるためのマニュアル本を読む、という図は、笑い物にしかならない。テレビのトーク番組でも、ときどき笑いのネタとして使われているくらいだ。岡ミドリの買った本もそうで、野生に学べって、そりゃあんた、勘違いもいいとこですよ。飢えた狼に女が近づくわけないじゃないですか。野性的な男というのは、一見かっこよく思えるかもしれないが、真の野獣からは女は逃げるのだ。

オリジナルの『キング・コング』がそうだった。コングは野性の本能ままに女を奪い、 「俺の女に手を出すな!」とばかりに、寄ってくる邪魔者を叩き殺す。アンはそんなコングには一切同情せず、ジャック・ドリスコルと結ばれる。当然だ。コングのようなやり方が、女性にうけるわけがない。いや、もしかしたら、これこそが愛だと思ってくれる人もいるのかもしれないが、コングのような本能のままに女性と接していたら、どういう行動につながっていくか、結果は見えている。

女を支配することだ。

自分の欲求通りに女が動いてくれなければ満足しない。そんな男尊女卑が、現代の社会で受け入れられるわけがないのだ。

しかし一方で、野性的なコングに共感したりもする。オリジナル版で、僕らは傍若無人なコングに敵意ばかり抱いていたのではない。共感していた。だからこそオリジナル版は面白いのだ。(特撮ももちろん凄いのだが)

僕らはみんな、人間社会に生きている。本能のままに生きていたら、物を奪い、人を殺し、己の欲望のままに動く人間になってしまう。それを防ぐためにルールがある。ルールはもちろん必要なものだ。しかし一方で、映画を見て、日頃ルールを守るために抑えている欲求を満たしたりもする。映画でなくても、体育会系の人間に、野性的な面を見たりする。

唐突だが『ロッキー』の話をしよう。ロッキー・バルボアは、ボクシングに打ち込み、エイドリアンへの一途な愛を曲げない。自分が目指した物に、一直線に突っ走る人間だ。それは、役を演じ、脚本も書いたシルベスタ・スタローンの分身でもある。「筋肉馬鹿」「脳味噌まで筋肉」「ヒーローを夢見ている男」これらはスタローンを揶揄した言葉だ。けれども、そんな彼にどこか共感してしまうことは否めない。スタローンは嫌いだけど、『ロッキー』にだけは感動できる、という人だっている。ジムでトレーニングをし、街を走るロッキー。それにビル・コンティの音楽が重なる。それだけで観客の心も燃えてくる。

僕らの心にも、野性の本能が残っているのだ。だから体育会系の人間や、筋肉馬鹿に憧れる。デナムやドリスコルやロッキーも、野性的な面が強い人間だ。しかし彼らも結局は人間社会に生きる男である。それに対し、コングは野性そのものだ。コングこそ男の中の男なのだ。

僕がピーター・ジャクソン版(以下、PJ版)『キング・コング』を物足りないと思ったのはこの点だ。

恐竜を倒した後、アンに見つめられて照れたそぶりをみせるのも、ニューヨークで氷の上でアンと戯れるのも、そんなコングは見たくなかった。この映画のコングは、人間くさい。ここで描かれているのは、野獣としてのコングではない。言葉が通じない異国人としてのコングだ。意思の疎通がとれないから、理解されず、怖い奴としか思われていなかったが、たった一人、アンだけが、コングの優しさに気付いた……って、俺はそんなコングは見たくないんだ!アンが絶対に受け入れないような、野獣コングが見たいのだ。

コングだけじゃない。

ジャック・ドリスコルも、船乗りから脚本家に設定を変え、男っぷりが薄くなってしまった。「こんな立派な服を着たのは初めてだ。」オリジナル版で、印象に残った台詞だ。この台詞こそ、ジャック・ドリスコルという人間をよく表している。今まで船乗りだった彼は、上流階級の人間とは違うのだ。有名になったロッキーが、スーツを着ているのを見たときの、あの違和感だ。

そしてカール・デナムだ。オリジナル版で彼を見たとき、僕は、正直、かっこいいと思った。確かに現実にいたら、迷惑な男だ。しかし現実にいたら困るコングに共感できたように、デナムにも共感できるのだ。

やっとのことでコングから逃げてきたアンとドリスコルを前に、何もせずに帰ってたまるか、必ずコングはここに来る、コングが求めているものはここにいるからな、とアンを指す。アンにとっては、たまったものではない。ここで単純に連想するのは、ドラマでよく見る、嫌な上司である。部下のことを考えず、己の利益ばかりを考えている。現場の苦労など考えず、上から物を言うばかり。しかし僕がデナムに抱いたイメージは、それとはちょっと違う。厳しい上司であると同時に、尊敬できる上司だ。怖くもあるが、判断も指示も適切で、俺もあれだけの実力を持ちたいと思う憧れの対象。

PJ版では、スカル島に着く前夜、ベッドで毛布にくるまったデナムが映される。また、島では恐竜から逃げて酒を飲む。ベッドの彼は、恐怖で縮こまっているとしか見えなかったし、酒を飲むのは、恐怖から逃げているとしか見えなかった。こんなデナムは見たくなかった。彼は進んで危険な撮影現場に立つ人間だ。酒を飲むとしたら、現実逃避ではなく、自分の眠っている力を呼び覚ますためだ。

確かに、PJ版のデナムも野心家だ。しかしPJ版のデナムがジャングルに行く目的は、あくまですごい映画をつくるためでしかない。彼はフィルムを愛し、スクリーンに映る映像を愛して、ジャングルへ足を運んでいる。オリジナル版のデナムは違う。少なくとも僕の中では違う。カール・デナムはジャングルに出向いた映画監督ではない。カメラをかついだ探検家だ。藤岡弘探検隊長が、自身でカメラを回しているようなものだ。(すまん、川口浩探検隊ではなく、こっちの世代なんだ)

デナムはジャングルでも立派なスーツを着ており、上流階級の人間を思わせる。だが、スーツの奥には、脂肪に覆われた丸いお腹ではなく、六つに割れた腹筋が隠れているのではないか、そんな気がする。デナムは、野生動物を愛し、弱肉強食の世界に共感して、ジャングルへ行くのだ。

僕にとっての『キング・コング』は「男のための男の映画」だ。女性の観客が入らなくたってかまわない。僕はオリジナル版が好きだ。

(評価:★5)

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