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[コメント] 十二人の怒れる男(1957/米)

これはすごい映画です。
prick

 語られ尽くされているので今さら何も言うことはございません。

 というわけで、いつもの如く関係のないことを書いてしまいます。

 人を裁く時、我々は客観的事実に基づいて冷静な判断を下さなくてはならない、たぶんな。ほいだけど「じゃあ客観ってなんなのさ?」って疑問がいつも頭をよぎる。「抑圧の主体もまた抑圧されている(言い換えれば「中期以降の尾崎豊の歌」)」ライクな「今時ポストモダン?」的疑問ではあるけれど、「客観も結局は誰かの主観」という揺るぎない事実。

 素直であるように、誠実であるように、純粋でいられるように、そんな感じに客観的であろうとしているけれど、僕が何かを判断するとき、それは既に「僕の主観」でしかないのだ。「人が人を裁く」という行為が難しいのは承知の上だけど、僕が裁かれる立場だったらやっぱりキツイよね。“客観報道”という言葉が死語になっちゃった理由もそこらにあるわけだし。

 僕はあまり頭がよくないので難しいことはわからない。しかし、こういった疑問が今の時代では“コレクト”とされていないことは知っている。カミュが流行らない理由と同じ。「不条理は最初からそこにあるものとして受け入れてやっていかなくてはならない」のだよね。いちいち異議を申し立てていてはいけない。そういうのは70年に終わってしまった。でも、気になるものは気になるのだ。

 客観ってなんですか?

 とまれ、これら矛盾をすべて解決してくれる画期的なシステムが開発されていたら、こんな映画はうまれなかっただろうし、そもそも映画というもの自体が発展を遂げることはなかったはず。所詮『パーフェクト・ワールド』なんてものは物語の中にしか存在しないってことなんですかね。やばい。なにが言いたいのかわからなくなってきたぞ、むむむ。司法制度改革万歳!ってことにしておくか。

(評価:★5)

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