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[コメント] ふたりのベロニカ(1991/仏=ポーランド)

偏光フィルターとカメラアングルに凝った美しい映像、プレイスネルの脆さと鋭さが同居するサントラ、劇中劇、意味ありげなアクシデント……クシシュトフ・キェシロフスキの特徴と魅力が最も濃縮された映画。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







僕の中でクシシュトフ・キェシロフスキといえばズビグニエフ・プレイスネルの音楽とは切っても切れない。監督もこのサントラがフランスで意外に売れたことを喜んでたけど、ファン・デン・ブッデンマイヤーというルネサンス期の架空の作曲家に仮託された音楽は官能的な艶と響きを備えつつもどこか不協和音と残酷な危うさと潜ませている。その快感を裏切られるような旋律は熱唱するベロニカが突如舞台で倒れて死んでしまう儚いシーンに象徴される、いたずら好きなのに非常に冷徹な視線の持ち主である監督の“肩透かし”を食らわす性癖と呼応している。

「アマチュア」において映画撮影にのめりこんでいく主役、『愛に関する短いフィルム』で望遠鏡越しに最愛の女性を覗き見る青年、『殺人に関する短いフィルム』には殺人者が過失で殺してしまうことになった妹の写真、『トリコロール 赤の愛』でも法律家志望の青年は恋人の情事を覗き見をする。カメラを通してレンズ越しに対象にコミットしていく登場人物が逆にその対象に影響を受けて冒されて行くような設定を度々見かける。撮る(レンズ越しに対象を捉える)というのは本来積極的で攻撃的な姿勢であるはずだが、キェシロフスキの登場人物はどこかその行為自体が犯罪性や非道徳性を帯びている時はともかく帯びていない時ですら罪悪感すら感じているのではないかと思われるほど謙虚であり、静的であり受動的でもある。ベロニクは旅先のワルシャワでベロニカの写真を撮り、ベロニカは死ぬがベロニクは音楽とのかかわりを断つことによって生き延びる。ここでも撮ることによって撮った本人が影響を受けるという奇妙な眼差しがある。この映画の眼差し場合はキェシロフスキにしては優しく温かく肯定的だが。キェシロフスキは映画を“撮る”ことに満たされない感情や罪悪感に通じるような負の感情を抱いていたのだろうか? この監督がトリコロール三部作を撮り終わった後、インタビューで「もう映画は撮らない」と述べていたことを思い出す。結局は心臓の病のせいで急逝しまったため、「神曲」を翻案した作品と噂されていた新作は撮れなかったのだが。確かにこの監督はカフカの影響を指摘されることが度々だし、どこか「小説家になりたかったのに映画監督になってしまった」ことに関して自分を説得できてないようなところ自分に納得できてないようなところがある。ベルナルド・ベルトルッチなどヨーロッパのインテリ監督に度々見受けられる文学青年の挫折としての映画監督。時に卑屈さすら感じさせる無念と諦念と失望はこの監督の映画全般を通じて隠見するモチーフとして付き纏っているような気がしてならない。

劇中劇。これもこの監督の特徴だ。『殺人に関する短いフィルム』の猫の首吊り死体のような小道具が伏線や暗示として使われることは多いだろうけど、その延長線として、登場人物の過去をなぞったり未来を暗示するような劇中劇が織り込まれていることもある。その構造に要求される脚本と設定の緻密さが観客の意表をつき、この監督の神秘性を感じさせる原因になっていることは間違いない。『トリコロール 赤の愛』では老判事の過去と法律家志望の青年の現在という二つの流れが“覗き見”という焦点によって見事に一つの流れに合流していく神秘的な、しかし非常にシニカルで残酷なシーンがある。この映画でも人形劇が効果的に織り込まれている。「死と再生」というテーマはベロニカの写真を撮ったことによって、影響を受け死に通じていた音楽を止め、死を避けたことによって再生したベロニク=ベロニカと全く合致している。ベロニクがあのまま音楽を続けていたらベロニカ同様に死んだいたことが示唆されているし、よってベロニクとは“死ななかったベロニカ”でもあるのだ。要するに都市と周辺の脇役が違うので違和感と戸惑いを感じるかもしれないが、ある意味『ふたりのベロニカ』という物語は「もし○○だっら……」という“if”の物語であるのだ。ここで思い出すのがこの監督の「偶然」だ。電車に乗り込めたか、乗りそこなったかで主人公のその後の生き様が異なるあの映画で使われていた“if”というテーマが神秘的な色彩を濃くしてこの映画で再利用されているのだ。それにしても音楽=芸術が死に通じているという考えは、芸術に対する覚悟の重さや潔癖性を感じさせると同時にこの監督のどこか厭世的な視線とも通じていて、もの悲しさすら感じてしまうのだが。

この映画の恋愛はかなり技巧的である意味メタフィジック。しかしたいていの人は相手に恋愛感情を抱いていようがいまいが「この人は自分を愛してくれているのだろうか?」という疑問を持ち続け、相手のちょっとした視線、髪を掻き揚げるしぐさ、二重の解釈ができる他愛のない言葉に馬鹿のように一喜一憂するのではないだろうか? もちろん「彼女は俺を愛している」ことを微塵も疑わず自身満々で、恋の自問に悩んだり脅かされたりすることのない、(人のいいorずぶといor鈍感なor無神経なor真実相思相愛なor真実相手を心身的に隷従させている)人もいるだろうが、ほとんどの人は恋愛が真なるものであるかどうかは“相手を試す”ことによってしか確認できないのだはないだろうか? セックスが確認の代用を果たすことが多いが、セックスを許したからといって、セックスで感じたからといって、それが愛情が真であることの証拠であると考えるほどキェシロフスキは単純ではなかったわけだ。この監督がかなり人間不信で他人に対する視線が時にぞっとするほど冷徹なのは『デカローグ』の「ある愛に関する物語」とその劇場版である『愛に関する短いフィルム』のラストが正反対であることからも察することができる。後者の類希に美しいラストシーンは、監督にとっては観客への妥協、つまり市場原理に屈したわけであり、彼自身は前者のある意味救いも夢もないが徹底的に人間心理におけるリアリズムに忠実であるラストシーンのほうを好んでいることからもキェシロフスキが現実の裏打ちのない希望や恋愛といったものを信じてない、シニカルな現実主義者であることが分かる。

デカローグ』はポーランドの批評家によってその忠実なリアリズムを嫌われた。 しかし彼が単なるリアリストでなく、社会主義リアリズムとも無縁で、実は茶目っ気たっぷりの性格であることがその映画が救いがないものであっても(そこそこ)広く世界で愛されている理由なのだろう。現実主義者でありながら神秘的な要素のが多分に含まれるという奇妙な分裂の原因は彼の悲観的ですらある現実主義的価値観と子供っぽさを残したいたずら好きの性格という二面性からくるのであろう。彼の映画の神秘性も奥行きの深さも多重性も、彼の思想や哲学といった高度な抽象概念よりもいたずら好きな性格や茶目っ気からきていることのほうが多いような気すら時にする。人間不信でありつつ同時にユーモアを解する茶目っ気たっぷりの人間であることは二律背反ではないから。

この監督がはやばやと死んでしまったのは返す返す非常に惜しい。

(評価:★4)

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