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[コメント] ディープ・ブルー(1999/米)

パニック・ムービー・ルネサンスの幕開けになるのか?
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ある映画監督、とりわけある程度の名声を獲得し、ある程度の地位を確立している監督の得意とするテーマやスタイルを模倣したり、踏襲したり、戯画化したり、歪曲したりすることによって、その映画監督に挑戦しているのではないか? と勘ぐってしまうような映画がある。クエンティン・タランティーノは彗星のようにデビューし、パルプ・ノワールと呼ばれるチープな感覚の犯罪映画を複数の登場人物の多角的な視点によってストーリーを構成するスタイルを確立した。その影響は若手に多大なる影響を及ぼし、田舎町のまだ無名の不良が「あいつに喧嘩で勝って名を挙げたろか!」的にその地域では腕っ節が強いことで有名な不良に喧嘩を売るように、映画界においても若くして名を挙げたタランティーノに喧嘩を売っているかのように挑発的な映画があるのだ。ダグ・リーマン(ライマン)は『スウィンガーズ』で自らのタランティーノ贔屓を微笑ましくも広言しているが、タランティーノのファンにとっては彼の『go』を廉価版『パルプ・フィクション』としてひたすら貶すだけのお門違いの人もいる。リーマンの映画はタランティーノ的なパルプ・ノワールを意図的に更にチープかつ身近なものにして、タランティーノ的な多角的な視点を踏襲することによって、かえってタランティーノへのオマージュすら表明していると思われるのに。ただし、『パルプ・フィクション』より『レザボア・ドックス』のほうが「優れた映画である」という見解は僕もリーマンも同じようなので、『パルプ・フィクション』的スタイルを踏襲することを単なるタランティーノ讃歌と素直に受け入れられない部分はあるのだが。さて不敵にもタランティーノへ喧嘩を売っていると勘ぐられてもしかたがない監督がいる。ガイ・リッチー。彼の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』は明らかにタランティーノへの挑戦状である。特にストーリーにおける犯罪性より、映画としてのファッション性や洗練度、そして何よりユーモアの感性において。タランティーノの乏しいユーモア感覚をあざ笑うかのようなリッチーの挑発的なユーモアは天性のセンスを感じさせる。少なくともその点(ユーモア感覚)においては、リッチーがタランティーノに喧嘩で勝っていることは間違いない。

さて前置きが長くなりすぎたが……この『ディープ・ブルー』という映画もよ〜く観ると、いや、よく観なくてもスティーブン・スピルバーグへの挑戦状であることが分かる。そもそも人食い鮫を扱っていること自体が『ジョーズ』的だし、遺伝子操作によって人工的につくられたモンスターが限定された場所において人間に反乱するというのは『ジュラシックパーク』的である。『ディープ・ブルー』自体がパニックものであるが故にスピルバーグの映画の中でも特に「パニックもの」に焦点が絞られており、更に念入りなことにはスピルバーグのパニック映画の中でも白眉である『激突!』的要素を除いているところが周到だ。

激突!』は観客や批評家による意義付け、マイノリティやエコロジストや人権論者への小心翼々な配慮、ストーリーから引き出される教訓じみたものを断固として拒むかのようにひたすら不気味なサスペンスで畳み掛けるパニック映画であり、つまりパニック映画の手本、真髄のようなものである。その点は『ジョーズ』も同じだが、『ジョーズ』は彼の出世作である点が重要なのである。スピルバーグという監督は只でさえビッグネームな上に(特に動物)パニックものの権威みたいなところがある。初期においてひたすら観客を脅かし、驚かせ、恐がらせ、震えさせるためだけに「映画を単なる娯楽に留めおかず、人生にとって意味のあるものに引き上げるためのヒューマニズム(というまやかし)」を禁欲的に排して、映画賞や批評家の高評価とは無縁でも観客に映画の娯楽性を堪能させ、パニック性の真髄を強烈な印象で記憶に焼き付けるようなパニック映画を作っていた……はずだった。ところが彼に対する評価が「面白い映画は作るけど、人間が描けてない」「楽しめるが、中身がない」という風に定着しそうになるにいたって、彼は熱烈にアカデミー賞を獲るために前面にヒューマニズムを押し出した甘ったるい文芸作品風味の映画を作り出す。『カラー・パープル』、『太陽の帝国』などで失敗し、ようやく『シンドラーのリスト』で受賞する。オスカーの像を手に満面の笑みでスピーチする彼にはかつて「ヒューマニズムや意義付けや配慮という予定調和を一顧だにせずひたすらサスペンスに徹したパニック映画」を撮っていた若き日の面影はない。

ヒューマニズム的解釈によって映画から(陳腐な)教訓を引き出したり、物語を(俗物的に)意義付けしたり、生き物としてのストーリーの円滑な展開よりマイノリティや社会的正義に代表される抽象概念に対する配慮を予定調和的に盛り込むことの重視による悪影響は彼の十八番だったはずのパニックものにも悪影響を与え、『ジュラシックパーク』においては、「人工的操作による反自然性」という愚にもつかないメッセージが恥ずかしげもなく訴えられる。そのメッセージが本来パニック映画である『ジュラシックパーク』のパニック性そのものを著しく損ねているにもかかわらず……映像自体は素晴らしく見応えがあっても、ヒューマニズムや教訓で味付けされ、社会的正義に媚びることによって内容は模範的でもあってもぎこちなく無味乾燥になってしまっているのが最近の彼の特徴のようだ。その特徴はスピルバーグに留まらず、おおよそスピルバーグに倣った動物ものにせよ自然災害ものにせよパニックを題材とするハリウッドの娯楽映画全般を汚染しているのだ。この傾向を僕は、心理的リアリズムの名のもとに陰鬱で甘美なメロドラマを撮りつづける伝統的なフランス映画の現状を「ある傾向」として蛇蠍のごとく憎悪して断罪した若き日のフランソワ・トリュフォーに倣って、ハリウッドのパニック映画における「あるスピルバーグ的傾向」と名付けたいと思う。そしてこの『ディープ・ブルー』においてなんと! 一介の娯楽映画の監督と思っていたレニー・ハーリンがハリウッドのパニック映画の主流である「あるスピルバーグ的傾向」に反旗を翻しているのである。その反骨精神を見ていくことにしよう。

≪1.教訓≫ 『ディープ・ブルー』から導き出される教訓はずはり「遺伝子操作による反自然性」だろう。神の領域に手を出してしまった科学者たちの思い上がりを批判する。この点は『ジュラシックパーク』と類似する。そして後者ではジェフ・ゴールドブラムがあいも変らずぶつくさ垂れていた愚痴に盛り込まれていた教訓は、前者ではサミュエル・L・ジャクソンが堂々たる態度と口調でスクリーンの観客に向かって謳いあげるのだ。「人間が悪化させる」と。ところが彼が熱意を込めて感動的に教訓を垂れているまさにそのときを(鮫はもちろんだが監督自身も)狙ったかのようにジャクソンは演説の途中で呆気なく鮫に食われてしまう。本当に呆気なく。笑ってしまいたくなるほど(ちょうど『インディ・ジョーンズ2』で刀を振り回して達人振りを披露する敵をインディがなんの躊躇いもなくピストルで撃ち殺したように)。まるで「娯楽映画の王道たるパニック映画には教訓なんか不要なんだ!」とハーリンが人食い鮫に仮託して訴えているかのようだ。まるでスピルバーグに向かって「つまらない教訓を盛り込むより『ジョーズ』を撮っていた頃のパニック映画に内容を求めなかった初心に返れ!」といわんばかりに。

≪2.配慮≫ 配慮というのは主要登場人物の人種的比率(例えば、白人:黒人:黄色:ネイティブ・アメリカンの比率)不自然に確保したり、フェミニズムをストーリを損なうほど考慮したりすることだ。ただでさえ駄作の『パール・ハーバー』がキューバ・グッティング・ジュニア演ずる黒人として初めて受勲した軍人の物語を附合させたことによって更なる駄作になってしまったことを想起してほしい。この映画ではラスト近くで海中の基地から脱出するのは白人男性:(白人)女性:黒人(男性)=1:1:1となっており、まさに見事な黄金比率を保っている。しかし驚いたことに、この中で最も犠牲になりそうな黒人男性が鮫にくわえられて「嗚呼、死んじゃうのか……」と思わせておいて、期待を(いい意味で)裏切り実は死なず(鮫にくわえられたはずなのに大した傷も負ってない)、本来ならヒロインたる地位を約束されているはずの女性が鮫に食われてしまう。しかもこの女性は白人男性を救うために自分を囮にするというあまりにも崇高な自己犠牲の精神を遺憾なく発揮しているにもかかわらず鮫に食われてしまうのだ。このようなことは「あるスピルバーグ敵傾向」の娯楽映画では考えにくかったことだ。なぜなら「あるスピルバーグ的傾向」の映画では殺される人物はほぼ確実に予想できるから。もちろんこの女性自身が人食い鮫を作り出した元凶であり、彼女のおかげで罪もない科学者たちが死ぬわけだから、彼女が鮫に食われることはある種のカタルシスでもあるのだが。

ちょっと時間がなくなってきたので(暇人なのは確かだが、これだけ書くのもけっこう時間がいるのだ)この辺で止めるが、ハーリンは『ディープ・ブルー』において「あるスピルバーグ敵傾向」を否定することによってパニック映画の復権を求めているようにすら思えるのだ。それは来たるべきパニック・ムービー・ルネサンスの先駆けになりうるのか? 一応誉めているのだけど、3点どまりなのは「では、もう一度観たいか?」と聞かれても「いえ、結構です」と答えるだろうから。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)けにろん[*] NAMIhichi G31[*]

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