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[コメント] アキレスと亀(2008/日)

三部作最終章を飾るに相応しい秀作。北野武がゲキ(劇)アートする! 
いくけん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まず、お詫びです。かなりの長文になりました。そして、他の北野監督作品についても言及し、ネタばれになりそうな危険も多々ございますが、ご理解とご了承を下さい!●推敲の余地は多分にありますが、ほぼこのレビューで完成です。●『アキレスと亀』を論じるにあたり、監督の、意図するところかどうかは定かではありませんが、絵画史的な分析が有効でした。そこで、まず北野監督のフィルモグラフィーを論じてみます。

(1) 北野武のフィルモグラフィーと絵画史との関係 (試論)

●リアリズム(写実主義)

極論すれば、その映画的資質に於いて、北野武はリアリズムの人だ。監督処女作『その男、凶暴につき』に於いて端的に現れている。長い沈黙の後、唐突に刹那(せつな)に表出する暴力の瞬間。その迫真性。背後に流れる闇の深さ。すれ違う二人の男の殺気。銃口の響きのタイミングの良さ。そしてロング・テイク(長回し)。北野武は、編集の切れ味の凄みに隠れてはいるが、その迫真性、リアリズムの資質に於いては溝口健二の系譜に連なる(べき)人だ(った)と思う。その事は薄々本人も自覚していて、溝口の『近松物語』を下敷きに現代に蘇らせて『Dolls ドールズ』をロング・テイクで撮った。芸術的完成度に於いて溝口には遠く及ばなかったが、ある種の様式美と凄惨美は表出出来たと思う。

●象徴主義

象徴主義とは「人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現するもの」である。白昼夢のような『3-4×10月』及び『ソナチネ』は処女作と同じ暴力の衣(ころも)を付けてはいるが、そのベクトルは異なる。北野監督が自覚しているかどうか、いや、脚本の段階で気付いていたであろう、この2作品は、象徴主義の領域に昇華或いは変質している。

●叙情派

自然と人間が理想的に調和する姿。その精神性に於いてはリアリズムとの対極を成すで あろう。『あの夏、いちばん静かな海。』はこの系譜にある。北野映画の描く男女二人の後ろ姿はいかにも叙情的で暖かく、また、彼の描く絵画には叙情派的な作品に良作が多い。黒澤作品が肉厚な西洋絵画或るいは彫刻とするならば、北野作品は淡い綺麗な色調の平面的なパステル画の印象を持つ。

では、もっとフィルモグラフィーを進めてみます。

●表現主義

表現主義とは、外の印象ではなく、作家の内面を表現する技法。情緒的情動的に色彩を使用し不安などの感情を表現する。ゴッホなどの後期印象派も表現主義に属する。映画史における最初の表現主義は、『カリガリ博士』などに代表される「ドイツ表現主義」であろう。そして、映画作家の創作の苦悩を、初めて題材として映画化したユニークな作品が、フェリーニ監督の『8 1/2』。創作の苦闘なりジレンマを描く点で『TAKESHI’S』と『監督、ばんざい!』は明らかに『8 1/2』の支配下にある。果敢にも、北野武はフェリーニ的表現主義の世界に挑みました。その二人の映画作家としての映像イマジネーション力は、明らかにフェリーニの圧勝でした。北野ってこんなに偏差値低かったんだ。あの時は、正直、俺も凹(へこ)みました。 さて、やっともう少しで、『アキレスと亀』の話に入れます(長文スミマセンw)。 北野武監督は『TAKESHI’S』、『監督、ばんざい!』、『アキレスと亀』を三部作だと括(くく)っています。正式には何三部作と呼ばれるのでしょうか?アントニオーニ監督の「愛の不毛三部作」ならぬ「(ただの)不毛三部作」←(失礼w)。はたまた「自作自演三部作」w。まじレスすれば「自問自答三部作」でしょうか?

(2) 「アキレスと亀」作品評

アキレスと亀』は、その独創性に於いては非常に高い傑作である。三部作で括るのは失礼にも程がある。北野に謝りなさいw

真知寿(まちす)の少年時代の抑えた色調と映像。まずまず渋い。今回のこのパーツは木下恵介を意識した遊びなのかも。母子が連添うヒキの画面なんか『二十四の瞳』 の木の枝振りにそっくりで美しかった。その叙情性に於いては、やはり木下に適いはしないが。しかしその単調なリズムが、後半の序破急のドラマに効果的に響いてくる。

真知寿(まちす)の青年時代、色調は未だ抑えてあるが麻生久美子の登場によってその映画のエロスは全開となる。真知寿(まちす)の壮年時代、様々な作品群の出現により色彩は豊かになり、樋口可南の抑えた美貌により映画のエロスは佇む感覚の面白い構成だ。抑制されたエロスの側に、タナトスはより際立つ。

「コントの笑い」と「映画的高揚」の共存は可能なのか。漫才師出身の使命感からなのか真面目なキタノ君は何故かこの命題にこだわる。「みんな〜やっているか」では、そのまんまコント集で唖然(あぜん)とした。『TAKESHI’S』、『監督、ばんざい!』でも惨敗。とくに「監督、ばんざい!」は金返せ的な状況である。「コントの笑い」と「映画的高揚」の 相性は大変に悪い。「コントの笑い」では無く、「シニカル(皮肉な笑い)」で「映画的高揚」の並存なら、まだ成功例が数少ないが存在する。『博士の異常な愛情』がそうだ。そして、今回の『アキレスと亀』で何と、北野武は「コントの笑い」が「映画的高揚」を増していく荒業に成功したのだよ、明智くん。その勝因は「アクション・ペインティング」の起用です。

●アクション・ペインティング

ご存知のとおり、現代アートの代表的手法のひとつ。「顔料を紙やキャンバスに注意深く塗る代わりに、垂らしたり飛び散らかせたり汚したりする絵画の様式。作品は具体的な対象を書いたというより、絵を描くという行動(アクション)自体が強調されることになる。」

バケツにペンキを入れて壁にぶつかったり、お玉でペンキを飛ばしたりして、その行為コント自体はお馬鹿で笑えるのだが、その作品自体は妙にカラフルだある種の感銘を受け、また映画に集中していける、そのリズム。上手いなあ。回転しながらカラーボールを打つそのアクション・ペインティングには痺れました。「ソナチネ」の紙相撲のシークエンスの時のように映画の神が降りて来ました。「誰でもピカソ」出演中にアート感覚を磨たのでしょうね。

劇中の真知寿(まちす)は、絵画の天才では無い。父親の言いつけを守って育てられた作られた、絵画の秀才である。秀才が天才を超える業績を上げるには、命がけの精進しか無いのか。

映画の中で、ピカソ、ミロ、バスキア、そしてウォホール風の北野絵画を連チャンで見せ付けられた時には大笑いしました。今回の映画の監督のサービス精神は、楽しめました。でもふと思うと、北野監督は芸能界、映画監督の掛け持ちの大激務の中で、更に刹那の時間を見つけて絵画制作の精進をなさっている。その努力に頭が下がります。胸が熱くなります。そう考えると、何度も挫折し、何度も不死鳥のように甦る北野武監督自身が ひとつの芸術作品に思えて来ました。あくまでもオブジェでなく、一人の生きたパフォーマーとして。凄いです。偉大です。

それでは、人間北野武の生き様をひとつの作品と考えた場合、「監督、ばんざい!」という、失礼ですが超駄作を敢えて発表した意図も理解出来ます。「オイラ、もういっぱいいっぱいなんだけれど、精一杯頑張るよ。」駄作を発表して辛かったでしょう、その期間。でも今回も不死鳥のように甦りましてね。ただし、『監督、ばんざい!』の江守徹のガウン姿の足元、そのアキレス腱の下には一匹の立派な亀が映っていましたよ。「アキレスと亀」の構想は出来上がっていたのですね。スランプなんだけれど起死回生の構想があったのですね、少し安心しました。

● 結論

アキレスと亀』は、映画を通して、現代の映画の発達状態が、絵画でいうところの 象徴主義か表現主義の領域にしか達していない、現代アートの領域には到達していない 事の問題提示をした、空前、斬新かつ渾身の、野心的アートコメディである。

(ただし、俺が映画が好きなのは、大衆芸術なるが故に、象徴主義か表現主義止まりで、変に小難しくなく、純粋に視覚で楽しめる点なのですけれどw 監督もやっぱ、ゴッホが一番かなって思っておられるのでしょう。)

● 印象

北野武監督は、この三部作に於いて、変身願望を常に顕にされて来た。『TAKESHI’S』に於いては、美輪明宏早乙女太一、幼虫、道化師(ピエロでなく敢えて道化師と書きます)。『監督、ばんざい!』に於いては、あのラーメン屋、プロレスラー蝶野、天山タッグの演ずる「蝶天ラーメン」(←よく気付いたでしょうw)。私は独創的な『アキレスと亀』を拝見しまして、感銘しました。この達成感。漆黒の中のほの白いスクリーンに、優雅で大きな一羽の黒紫に光る蝶が見えた気がしました。ラストシーンの辺りの片目の北野さんの目線を忘れません。俺も頑張ります!

(3) 『アキレスと亀』 そのタイトルの解釈 

映画自体が充分満足の出来る内容でしたので、このトボケたタイトルに、特に注意は払いませんでした。しかし、帰宅の列車内で、試しに考えてみました。自分なりの解釈です。その解釈によると、この作品の意図するものが見えて来ました。

「アキレス」とは(足が抜群に速いといった)、明らかに他人より秀でた得意分野がある「秀才」の事です。「亀」とは、いわゆる「凡人」の事です。人類の90%は凡人の部類です。ちなみに いくけん は亀の頭を目指しています。下ネタかよ〜!コマネチ! ネチコマ!

冗談はさておき、本旨に入ります。「秀才」は自分の才能に自惚(うぬぼ)れがあり、奇を衒(てら)います。庶民の日常・考え方とは違和感や疎外感を感じます。日々に感謝が出来ません。一方、「凡人」は奇を衒いません。自分の限界を本能的に、早々と悟り、日々にある程度感謝をしながら生きて行きます。「凡人」は生活での天才であります。 大宇宙から見れば、人間ひとりひとりの才能の過多など、問題ではなく、刻々と過ぎ行く時間に、淡々と感謝しながら生きるのが正解なのです。

過ぎ行く日々に感謝のできるという観点からは、「秀才」は「凡人」に、「アキレス」は「亀」に大差をつけて遅れています。

ちなみに「天才」(ノーベル賞を狙えるような際立った人、映画監督ではフェリーニベルイマン他、絵画芸術に於いてはピカソマティス他)も、意外と奇を衒いません。才能がとにかく特別で、常に周囲から尊敬されて居心地がいいと思います。仕事・業績の面でも、普通に生活していても、次々とアイデアが浮かび忙殺されません。人生の分岐点での意思決定も、直観力が抜群に優れているから、大きな間違いがありません。「天才」の時間は澱みなく過ぎて行きます。 時間の観点からは、「天才」も「亀」です。

「秀才」は「秀才」である程、「天才」の才能を感知し、羨みます。『アマデウス』のサリエリモーツアルトの関係です。日々を楽しく生きている「天才」に近づこうと、真面目な考え方の「秀才」は努力をします。寝食を忘れる程の時間を費やし、才能を磨いていきます。努力した「秀才」の業績は素晴らしい成果になります。超人的に見えます。しかし、悲しいかな、大抵の場合、その成果をもってしても「天才」の残した業績・作品には適(かな)いません。「秀才」なるが故に、その差を明確に認識します。 「秀才」は謙虚になります。妙なプライドが無くなります。日々に感謝して生きていき ます。やっと「秀才」は「凡人」と「天才」に追いつきます。「アキレス」は「亀」に追いつきます。

北野武は独特の感性を持った、真面目な映画の「秀才」です。しかし、やはり「天才」ではありません。「そして、アキレスは亀に追いついた。」その意図するところは 北野映画の表現主義からの決別宣言です。リアリズム=『その男、凶暴につき』=「キタノ・ブルー」の世界、或いは叙情派=『あの夏、いちばん静かな海』の世界に、どうぞ胸を張って戻って来て下さい。

そしてもう還暦を迎えられているのだから、お体に気を付けてお仕事してくださいね♪ (ああ、もう明治LGは飲んでいるのか、それにしても怖い顔だなw やっぱヤクザ映画に戻る前フリなのかな?w)

(4) 追記

ラストシーンの声

「もう、帰りましょう。」

お帰りなさい

ありがとう

監督!ばんざい               2008/10/12 記

(5) 再鑑賞

気になる点を再確認するために、後日劇場に足を運んだ。観客は残念ながら少なかった。

まず、上記で書ききれなかったことを思い切って書いてみます。

若い画商(大森南朋が好演)が真知寿(まちす)から預かった、そして後日、喫茶店 に飾ってあった大きく立派な絵画の事です。丘陵とその下に広がる港、停泊する何十艘の舟を「叙情性を矜持(きょうじ)しながらも、写実的」に描いた「絵画」。絵のシロート北野武が描いたとは思えないくらい(←失礼w&頭が下がります)に本格的な絵画。絵画の「秀才」真知寿(まちす)が、独学で、いや独学であるが故に、その自由な感性が生み出したその港の絵画。わたしはその絵画と、「叙情性を矜持しながらも写実的」な、北野武監督の代表作『キッズ・リターン』及び『HANAーBI』が重なって見えました。

劇中、インテリぶって詐欺的で冷たい画商の、絵画史とかの余計な刷り込み・アドバイスによって、感覚の「秀才」真知寿(まちす)は大いなるスランプ(人生の蛇行)に落ち込みました。真知寿(まちす)は映画監督北野武であると仮定してみます。じゃあ誰が、感覚の「秀才」北野武監督に返ってマイナスになる、映画史とかの夾雑物(きょうざつぶつ)を強要したかって話ですよ。もちろん悪意からではなく秀才北野武に「天才」を求めたところが原因だとは思いますが。もちろん、当然、夾雑物だと見抜けなかった北野武に最終的な責任はあります。

インテリぶった若い画商、犯人ともいえるソイツは、北野映画の製作サイドであり、一部の映画評論家であり、北野映画のファン・信奉者だ、と思う。

即ち、俺も犯人だった!!、立派な共犯者だ!って事です。 自分が犯人!! 何だか傑作推理小説みたいな話だけれどそうだと思います。

そして『アキレスと亀』という迷宮的な作品の中で、それらが全て語られています。 北野武は自覚し、製作サイドも自覚しつつ、この作品が発表されているのです。

(6)『アキレスと亀』 そのタイトルの解釈  PART2

こうゆう風に分析していくと、『アキレスと亀』のタイトルも別の解釈が出来ます。

「アキレス」は絶対的に足が速い存在、即ち(映画的)感性が生まれもって鋭い北野武でしょう。 「亀」は生まれもっての(映画的)感性は大したことはないが、それこそ、幼少青年期からの何千本観賞とかの狂気的な、ある種の努力?によって後天的に映画センスが身についた、製作者側の人間であり、映画評論家あり、(北野)映画ファンであると。

映画鑑賞本数の少ない(だって裕福な階層の出身でなく、芸能界に入ったら人気者であの激務ですから、何千本も映画は観れません!)北野武は「亀」に遅れをとっていました。

しかし「アキレス」、北野武は、今回の痛い経験、自伝風の三部作(表現主義で括れます)で己の苦手な分野、映像イマジネーション的なものを知り、同時に得意分野、リアリズムであり、叙情派を再確認した。映画史を身をもって把握したという事です。

(7) 平行する旋律

アキレスと亀』を注意深く鑑賞していると、二つの旋律が聴こえて来ます。ひとつは真知寿(まちす)に感情移入した場合です。「幼年期から、さまざまな艱難辛苦を乗り越え、己の好きな画業に専念できた(仕事が好きな事なんだよ!)、滑稽だが幸せな男の話」です。幸福な旋律です。もうひとつは、真知寿(まちす)を取り巻く周辺を鑑みた場合の調べです。真知寿(まちす)の周辺の人間、父、母、美学校の友人は自殺し、家庭も崩壊します。更に三部作全体を考えると、蝶(フェリーニと置き換えてもいいと思います。)を夢見た幼虫北野武は苦闘の挙句、変身出来なく、黒こげの幼虫に成り下がってしまった。美術を志した人間は滅してしまう。タナトスの旋律です。この旋律を主旋律に聴いてみると、この映画はコメディでありながら、秀逸な心理的ホラー映画とも思えてきます。独創的です。それにしても、美とは魔物です。「きれいはきたない。きたないはきれい。」の世界なのですから。美(術)とは業(ごう)です。魔物です。

北野武はどちらの旋律を強調したいのか、そして、何故、私は片目になった北野の目線(あの事故の時の原風景でしょうか。)にあれほど熱くなり、感動したのか。またひょっとして、スランプの犯人たち、共犯者のひとりである私を恨んではいないのか。その眼差しを確認するために、再度映画館に向かいました。

(8) 巧みすぎる構成

俺は再度、注意深く『アキレスと亀』を鑑賞しました。北野武は幸福の旋律、タナトスの旋律、どちかを強調することもなく、平行して描いていきます。映画は進行します。ラストの方です、今回の北野映画のテーマを探る最後の拠り所になりました。片目になった北野武の眼差しのシーンです。劇中の妻に向けられるのではなく、ベッドに横たわり、天井をながめる、即ち我々に向けられたその視線。

驚きました。とても暖かい感謝の眼差しなのです。「俺の人生に後悔は無い。満足だ。」そして、こうも瞳は訴えて来ます。「デビューしたからの、今まで俺(芸能と映画)に付き合ってくれて、ありがとう。」なんという暖かで凄い人なんでしょう。映画の中で、北野武は映画の核心に先回りして、非難めいた事など一切云うでなく、感謝の眼差しを送ってくれるのです!!その暖かさを感じただけで、再鑑賞のコストは完全に報われました。

幸福の旋律、タナトスの旋律、どちらにも映画は組しません。相反するものが共立し調和する「人工的・意図的」で不思議な光景。私はシュルリアリズム、特にルネ・マグリットの描く鳥の形に切り抜かれた空を強く連想しました。私は、テーマを考えました。日々の人生を送るにあたり、幸福の旋律、タナトスの旋律、どちらの旋律も聴こえて来ます。しかしです。そのどちらの、「主旋律」を聴くのかは自分自身の意志なんだ。認識した事が、事実になるんだ。私はそう考えました。『アキレスと亀』の世界観は『キッズ・リターン』の世界観に似ています。静かで詩的です。

上記のとおり深読みすれば、真知寿(まちす)のスランプは北野武のスランプに重なります。作家の創作の苦悩を描いた『TAKESHI’S』、『監督、ばんざい!』、『アキレスと亀』は「表現主義」三部作で括れます。更に、『アキレスと亀』は「シュルリアリズム」の領域に達しています。三部作は共通する断片(イメージ)、蝶、ピエロ、道、闇を開く一本の強い光、などの交差により「迷宮」の様相も呈しています。「迷宮」三部作と呼んでもいいでしょう。『アキレスと亀』は「映像的」にではなく、文字どおり建築的、「構造的」に見事に作られた傑作です。発想・脚本の勝利です。「映像的」な北野映画が好きな私ですが、今回は幾重にも解釈出来るこの「構造」の美しさを支持します。『アキレスと亀』は未だ、私も解ききれない断片と楽しみが多々あります。

北野武のフィルモグラフィーを絵画史と照らし合わせて考察すると、「リアリズム」、「象徴主義」、「叙情派」、「表現主義」、「シュルリアリズム」に符号します。北野武のフィルモグラフィー自体がユニークな絵画史であり、美術館の回廊ののような印象を持ちます。そして『TAKESHI’S』、『監督、ばんざい!』、『アキレスと亀』はその回廊の奥の小部屋に展示されている作品で、瀟洒な雰囲気を持ちます。

(9) 追記 その2(←その2ってw)

北野監督、あなたと同時代を生きれて、われわれは幸せでした。

映画ファンとしても、『キッズ・リターン』一本で十分救われます。

更に、様々な素敵な作品をありがとう!

プレッシャーになるので、真面目なキタノくんに過度な期待は致しません。

果報は寝て待まちます、ね♪

でも、たまに、東京の方にパワーを送りますのでヨロシク。

コマネチ、ネチコマw           2008/10/18  記

(評価:★5)

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