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[コメント] 續姿三四郎(1945/日)

武道とは何か? 武道にあらざるものたちとの闘いを通じて描く。
ペンクロフ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







前作『姿三四郎』での対檜垣源之助戦で「武道」対「武道」という頂点の闘いを描いた黒澤明。この続編では一転して「武道」対「武道ではないもの」の闘いを描き、前作とは正反対の方法で武士道の本質に迫る。

拳闘(ボクシング)は武道ではなく運動競技である。いろいろ異論はありそうだが、この映画では拳闘をスポーツ、しかも客がいてはじめて成立するスペクター・スポーツとして捉えている。これは武道とはまったく違うものだ。「体重が違う者同士が闘うのは不公平である」という平等主義から生まれた体重別階級制は、武道ではありえない考え方だ。(ちなみに映画では省略されていたが、富田常雄の原作では三四郎はマットに寝転んでボクサーに足を向ける。原作が書かれたおよそ30年後、猪木対アリという世紀の対決においてこの光景は現実のものとなる!)

唐手は完全にひとつの武道である。だがこの映画に登場する唐手の使い手、檜垣鉄心・源三郎兄弟は少し事情が違う。彼らは唐手をやらせれば滅法強いかもしれないが、武道家ではない。彼らの心には礼がない。血に飢えた狂犬のような鉄心・源三郎は「堕落した武士道」そのものだ。

いったい、武道さえ強ければその人間は武道家なのだろうか? 武道家という肩書きは、一度名乗れば免許証のように一生持っていられるものなのだろうか? この映画を観ると、そうではないことが判る。三四郎なんか、あんなに強いくせにいつまでたっても成長途上の書生さんでしかない。武士道とは、一度悟ればそれで終わるものではなく、侍であり続ける覚悟そのものなのではないのだろうか? これは永久革命であって、ちょっと気を抜けばたちまち落ちてしまう綱渡りのような世界なのだ。

三四郎は檜垣鉄心に勝つ。決闘は雪をバックにした影絵のようで、血沸き肉躍る興奮からは程遠いショボいものだった。だが実はこの決闘はどうでもよくて、映画のクライマックスはその夜に訪れる。源三郎は、敗れた鉄心を介抱してくれた三四郎の寝込みを襲う。力による勝利では、この兄弟を変えることは出来なかったのだ。だが眠る三四郎の無邪気な笑顔を見たとき、源三郎に魔法がかかる。源三郎は手にしたナタをしまい、鉄心は「負けた!」と呟く。兄弟は、ここにおいてはじめて負けを知ったのだ。富田常雄黒澤明は、ただ勝った負けたの武芸譚を語るつもりはハナからなかったのだ。三四郎は果し合いに勝ったのではなく、人間勝負に勝ったのである。

そして個人的に忘れられないのが、檜垣源之助が三四郎との語らいの直後、小夜と出くわすシーンだ。三四郎、源之助、小夜の三者三様の思いが複雑に入り乱れて美しい。源之助が真剣に小夜を愛していたことが判る、このうえなく美しい場面だった。黒澤明の作品としては世評の低い『續姿三四郎』だけど、オレは傑作だと思うのです。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)いくけん[*] 甘崎庵[*] kiona[*] ina

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