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[コメント] 王将(1948/日)

ただ勝ちたかった、それだけだった筈なのに
ペンクロフ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







かの有名な嘉納治五郎は「術の小乗より道の大乗へ至る」という発想で柔術から柔道を作ったそうだ。嘉納治五郎はインテリ学士だったけど、『王将』を観ていると無学文盲の坂田三吉がまったく同じ道をほとんど自力で辿ったのだなあ、ということがよく判る。関根七段との名人位をめぐる長い確執を経て、坂田三吉は大乗に達したのである。

映画の冒頭、ちょっとアホっぽいけど滅法強い坂田三吉は日の出の勢いである。野に埋もれている天才が世に打って出るときの輝きが眩しい。関根七段との初対決、千日手で敗れた三吉は負けを認めつつも未練がましく関根に詰め寄る。プロの将棋指しになるという宣言は、一生をかけても絶対にこの男に勝つんだという覚悟の表明だ。

三吉の人生最大の転機は、間違いなく二五銀の一手を指した瞬間だろう。どうしてもどうしてもどうしても勝ちたくて、苦し紛れに指した奇手。誉めそやされたその奇手を娘に「ハッタリ」と看破されたとき、「オレはあの関根に勝った。何が悪い」と開き直る道も三吉には残されていたはずだ。それまでの三吉からすれば、むしろ開き直る方が自然に思える。だが三吉は鏡に映った自分の醜い顔を見て悟るのだ。あの二五銀はただの奇手ではなく、「それが坂田三吉の目指す将棋なのか?」という分岐点そのものだった。どうしても関根に勝ちたかった、なんとかして勝ちたかった、ただ勝ちたかった、それだけだった筈なのに。三吉は、将棋を愛しすぎてしまったのかもしれない。いつの間にか、三吉の目的はただ関根七段に勝つことではなくなっていた。術の小乗において天才であった三吉が、道の大乗に目覚めたのである。

こういう形で人間の成長を描く映画は珍しい。「強い敵に勝つこと、これが成長である」とする映画はいくらでもある。オレは、それでいいとも思っている。勝てなかった相手に勝つこと、これだって尊い成長であることに間違いはないからだ。だが『王将』は、その遥か先を描いてしまった。昔の日本映画だからというわけでも、チャンバラで名をなした阪妻主演だからというわけでもなく、オレはまさにこの部分に「武士道」からの強い影響を感じる。『王将』は日本人にしか理解できない映画では全然ないのだけど、それでも武士道の思想に無意識に親しんだ日本人にこそ、よりすんなりと受け入れられる映画ではないだろうか。

三吉が名人位を八段になった関根に譲り、関西名人の肩書きさえ名乗らないと聞いた目医者の先生が満足げに言う、「三吉君がそこまで行ったか」。しかしこの目医者は、かつて誰よりも三吉が名人になることを望んでいたのではなかったか。そのために(たぶん)タダで目の手術をしてくれたほどの人である。その彼が言う「三吉君がそこまで行ったか」、これは名人という肩書き以上に尊いものを三吉が手にしたことへの、満足の呟きだったのではないだろうか。三吉は将棋の名人にはなれなかったが、人間として名人になった。だから目医者の先生は満足したのだ。

三吉が名人位についた関根八段を祝いに行き、ふたりがはじめて将棋盤を挟まずに勝負抜きで向かい合ったあたりから、オレはもう泣けてしまって画面がよく見えなかった。恩讐の彼方に達したふたりの名人の佇まいは、このうえなく美しい。白黒で傷だらけのガタガタ画面でおっさんふたりがボソボソ喋っているだけなのに、あの美しさはただごとではないと思うのですがどうでしょうか。

(評価:★5)

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