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[コメント] フランケンシュタイン対地底怪獣(1965/日)

彼は確かにこの世界に生きていた
ペンクロフ

沢井桂子演じる原爆症の少女・田鶴子が非常に重要な存在だ。いつ死ぬとも知れぬ身の病床で、少女は美しく刺繍した座布団をニック・アダムスに贈る。「あの子の一生って、なんと言ったらいいんでしょうね…」 水野久美の嘆きに答えられる人間はいない。

少女の死はあっさり省略され、すでに命日だ。休まず働く水野久美に、ニック・アダムスは「ドライブしませんか、田鶴子さんのお墓参り」と誘う。あくまで明るく出かける2人は悲劇を目の当たりにしてなお、ひたむきに戦後を生きている。2人はお墓参りのあと、山狩りに遭う浮浪児を保護することとなる。

ひっそりと退場した薄幸の少女と「入れ替わるように」科学の手に保護される、フランケンシュタインの怪物。彼もまた「原爆の子」であることは明白だ。誰もが惜しみ憐れむ薄幸の美少女と、誰からも忌み嫌われる薄汚い浮浪児。対照的な両者は、実のところ同じ悲劇を背負う合わせ鏡の双生児だ。この浮浪児を、ただ忌み嫌っていて本当にいいのか。我々の視界からハジキ出してしまって、本当にいいのか。この映画は観客にテーマを突きつけ、詰め寄ることはしない。ただ浮浪児の醜い姿を、静かに示すのみだ。

渡欧した高島忠夫は、リーゼンドルフ博士から浮浪児の手足の切断を示唆される。フランケンシュタインの怪物は果たして人間と言えるのか。作られた人間に対して科学の横暴はいったいどこまで許されるのか。こんな深遠な命題に軽々に結論が出るわけもなく、科学者たちはそれぞれに悩み、迷いながら怪物を追うことになる。

悩める科学者の三者三様の姿は、実に丁寧に描かれている。水野久美は浮浪児に母性的な愛情を寄せる。理想主義者アダムスは、しかし浮浪児が水野久美に迫るや否や、オスとして彼女を守るアメリカ人らしい短絡も見せる。高島忠夫は冷徹な科学者だが、恋人2人にあぶれた疎外感からか研究にのめりこみ、怪物の手足の切断をひとり密かに決意する。怪物の檻の前でまずウイスキーを呷るのは、実に人間的で印象深い描写だ。あなたは誰に感情移入するだろうか。水野久美だろうか、ニック・アダムスだろうか? オレはフランケンシュタインの怪物に感情移入した。

地底怪獣の濡れ衣さえ着せられて追われる怪物の焦燥感、人々から石もて追われ、忌み嫌われるその孤独は本物だ。水野久美のアパート前に現れた夜の巨人の姿は、オレの中に生涯忘れられぬ強烈な印象を残した。彼にとってあの場所は雨の夜にタクシーに轢かれた忌まわしき場所なのだが、それでも水野久美への思慕を捨てきれず、危険を冒して戻ってきたのである。泣きたくなるような刹那の逢瀬の直後、やってくるパトカーのライトに怯えて隠れる怪物。これほど巨大に成長し、不死の生命を得てもなお、彼はまだ自動車が怖いのだ。オレの胸は張り裂けた。死ぬまで治るまい。

戦争と原爆、このうえない悲劇がすでに起こってしまった世界を我々は生きている。差別と疎外の尽きぬ世に、求めて愛は得られず、孤独を抱えてこの世界を生きている。ワッハッハの娯楽映画を作るなら、そんな重苦しいものは忘れ、切り捨ててしまう方が楽に決まっている。しかし本多猪四郎は忘れていなかった。怪物は、彼は確かに我々が生きるこの世界に生きていた。『ゴジラ』と同様にオレが感嘆するのは、観客を楽しませる娯楽映画の中においてこういった重いテーマに真摯に取り組み、なお娯楽映画として成就させる作り手の底知れぬ技量だ。深刻な顔で同情を誘う反核映画が100本あろうが1000本あろうが、『フランケンシュタイン対地底怪獣』には敵わないと思う。新藤兼人先生ごめんなさい。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)sawa:38[*] kiona[*] シーチキン[*] ロボトミー 水那岐[*]

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