[コメント] 羅生門(1950/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「えぇ、その男ったらね、赤子が身につけてたゼニが手に入らなかったもんだから、坊主を上手く騙して赤子をさらっていったんです、ハイ。わたしは影からその男の様子を見ていたんですけどね、羅生門から去るとき、にやっとわらったんですよ、そう、にやっと・・。まぁ、今頃、どこかの人買いの手に渡ってるんじゃあ、ないですかねぇ」
と、ラストのシーンを物陰からみていた「私」・・・95コメント全部拝見しましたが、ラスト、こういう解釈をした方がいらっしゃらなかったことに驚愕・・・。
わたしの主観って、もしや、相当ひねくれているんじゃないのか・・・と小一時間本気で悩みました。こんな形でこの映画のテーマを実感することになろうとは・・・。
ホントに笑ったように見えたんですよ・・ワルっぽくにやっと・・。(もう誰に対しても疑心暗鬼になっていたからなぁ・・ハァ・・。先入観ってコワイ・・)
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(追記)
埃被った「芥川龍之介集」を久々に開き、「羅生門」と「藪の中」を再読。私が性悪説然とした終り方をこの映画に期待した理由が分かり納得。芥川の「羅生門」を読んだ昔の記憶が、私の漠然とした先入観を作り出している。・・・理由がわかり、安堵(別に私の根性が相当ひねくれているというワケではなかった)。
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<羅生門には4人居た>
そま売り、下人、旅法師、観客。
羅生門でそま売りが語る「白州での証人の様子」は、正しく語られていると捉えてよいだろう。白州・羅生門共に旅法師も同席していたからそれはほぼ間違い無いと見てよい。
つまり、3人(男、妻、盗賊)の独白は、「主観の相違による、同一事件についての証言」と捉えられる(その審判は「白州の検非違使」の視点により可能となっている)。
さて、こういう独白を聞いた上で、我々3人(そま売り以外)は、羅生門でそま売りの独白を聞くことになる。3者の対応とは・・?
<下人>→全てはウソだと捉えるシニカルな役回り。すべての証言を退けることにより、逆にそれらをウソとして定位するような真実への信頼も表白してしまっている。
<旅法師>→すべての証言をできるだけ信じようとするあまり、3人(男、妻、盗賊)の独白の相違によって混乱をきたす。しかし、自分との共通性=<慈愛>をそま売りの中に見出すことにより、そま売りを信じ、救われる。
さて、<観客>は・・?(「私」は前途の通り)
黒澤は、芥川の「藪の中」を、検非遣使という完全なる第三者の審判の視点に留めず、観客へ審判を委ねている。(その審判の対象は、そま売りに対するものだけではなく、己自身への審判でもあった・・!)
・・・こう考えると、この映画のラストは映画全体を支える重要なシーンである。
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