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[コメント] 冷たい雨に撃て、約束の銃弾を(2009/香港=仏)

食卓と銃撃戦のアーティスト。真に哲学的といえる明晰さが、がらくたを寄せ集めた原っぱの遊戯性を携えて、映画的な情念を完成する快作。(2011.8.22)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 食卓に始まり、食卓に終わる映画である。『ザ・ミッション』あたりからジョニー・トーの映画はどんどんどんどん止まることなく料理がおいしくなってきたと思うが、これはその到達点だろう。食卓と銃撃戦にはなにか相関関係があるらしい(この発見は、ジョニー・トーの映画史的貢献かもしれない)。ジョニー・トーはこの映画でも食卓と銃撃戦の芸術家である。

 映画は、始まるはずの食卓が直前に破壊される場面から始まる。用意されていた料理は食されることなく、後日訪れたジョニー・アリディたちの前に、ゴキブリの這い回る惨めな姿で現れ、蹂躙された一家を物語る。このキッチンを静かに片付けたジョニー・アリディは、残された食材で「娘が望んでいるはずだ」と雇ったばかりの三人の男に手料理を振舞う。

 一方、この仇である悪役(サイモン・ヤム)はいつも、周りに部下たちを立たせたまま一人で腰かけ、一人で食べる(この映画でほとんど唯一、彼の食事だけはまったくおいしそうではない)。たとえ女を同席させたとしても、その目的はもっぱら性欲にある。食事の皿が置かれたままのテーブルの上に女を押し倒す登場シーンから、食卓を冒涜し続けるこの存在がこの映画の敵であると分かる(いや、それは、見る前にあらすじをある程度把握していたせいかもしれないけれど)。ラストで、アリディはこの男の食事中を襲うが、そのことにためらいがないのは、それが「食卓」ではないからだ。

 これと対比されるべきは、もちろん、三人組の襲撃犯と遭遇するキャンプ場のシーンであろう。四人の男は、自分たちが立ち入った場所が食卓であったことに気がつき、黙ってその場を通り過ぎる(それにしても、四人の男が斜面を下りて、また反対側の斜面を上って行く、というこういうシーンがいちいち格好よくって、私はなんだか「いやぁ、映画ってほんとうにすばらしいものですね」と今にも水野晴郎になってしまう)。三人組もこの心遣いに応えるが、彼らから差し出された食事を口にすることをアリディは拒む。彼らの食卓それ自体は尊重しても、娘一家の食卓を奪った彼らと食卓を共にするわけにはいかないのだ。

 ・・・・と、このあたりまでメモをまとめたところで(いや、水野晴郎のところは後から付け足しましたが)、CinemaScapeを開いてみたら、「食卓」については煽尼采さんがとっくにその明快さを詳細に論じておられたので(解釈の異同はあると思うけれど)、後だしジャンケンは切り上げて、別の明快さについて話をしよう。

 すべてを忘れた男に復讐の意味があるのか? ある。なぜなら、この復讐の主体は誰でもないからだ。復讐は最初、娘から父親である男に託される。そして今度は、その男が三人の男に協力を依頼する。依頼主の男はやがて記憶を失っていくが、アンソニー・ウォンは「彼は忘れても、俺は約束した」と言い、三人は戦いを続ける。約束はジョニー・アリディと三人との〈あいだ〉にあるのであって、その誰か一人の所有物ではないのだ。たとえ、約束した相手が忘れてしまおうとも約束の存在が消えるわけではない。三人の男が倒れたあと(この知らせがやはり食卓を悲しい場に変えてしまう)、銃身に殴り書きされた名前が一度は安息につこうとしていたアリディに「果たせ」と訴える(この訴えかけもやはり、その文字を書いたアンソニー・ウォンから発せられるというより、二人の関係が呼び覚ますものだ)。この時点で、復讐はもはや娘のものでも、アリディのものでも、三人の男のものでもなくなり、アリディはこの映画が織り成してきた関係の担い手として我が身を復讐に投じる。

 足を引きずりながら路地に立ち、「ジョージ・ファン!」と与えられた復讐相手の名を叫ぶとき、アリディは怒りや憎しみといったものからはとっくに解放されているだろう。この名が何を意味するのかを決めるのはもはや彼ではないからだ。記憶が失われ、人々が死んでいったとしてもなお、いかなる個人のものでもない過去が忘却を拒み亡霊のように現われ、彼の身体を突き動かすのである(文字通り「亡霊」たちと邂逅する祈りのシーンは、さすがに大げさすぎて、私も白けてしまったが、意図自体は明瞭であろう)。思えば、『ヒーロー・ネバー・ダイ』においても、「死なない」のは、英雄個人の身体ではなく、酒場で子どもじみた遊戯に明け暮れながら視線を交す、その英雄たちの共にある姿であり、そのような関係を織り成していた存在としての英雄が、彼らを切り捨てて前に進もうとする組織の前に亡霊的に現われるのであった。

 この映画を見ていて初めて理解したような気がするが、たぶん、組織によって担われる「報復」と、関係が押しうながす「復讐」とはまったく別のものなのだろう(この区分は便宜的に私が設けてみただけで、「復仇」という原題の漢字をあれこれと分解する用意はないし、あるいは英語でいえば"revenge"と"vengeance"の違いというあたりを、別に語源的に云々したいわけではない)。報復とは、現に存在しこれからも存在し続けようとする「組織」の結束と力とを、つまり、それが永続性と信じるものを内に外に示すためになされるものだけれど、復讐とは、現在に居場所がなく、失われ、忘却にさらされてしまうものの側から発せられるものなのだ(もちろん、だからといって、「復讐」なら許されるとか、人間同士のつながりは無条件によいものだとか言いたいわけではない)。だから、この映画では、「家」という「組織」の論理に簡単にすり替えられてしまう「血」の絆ではなく、あくまで「食卓」の絆が復讐の原動力に据えられているのだろう。そして、その土地に根ざさず、永続への欲望とも無縁の、記憶を失っていく異邦人(=突然現われた人)こそが、復讐を担うにもっともふさわしい存在なのだ。

 映画が達成し得る力学として、これほど明晰なものがどれほどあっただろうか?(この映画のためには、「哲学的」という言葉を、晦渋なセリフ回しや気だるいカメラワークのもとから取り戻さなければいけない) そして、この明晰さは、ときに愛嬌に溢れ、なにより狂おしく情念的なのだ。見終わってしばらく、間欠的に涙が止まらなかった。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (7 人)ゑぎ[*] MSRkb ハム[*] 3819695[*] ぽんしゅう[*] 煽尼采[*] 赤い戦車[*]

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