[コメント] 許されざる者(1992/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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鑑賞時に「面白い!」といった感想は抱けなかったが、やはり後に残る映画ではある。
このクリント・イーストウッドの強さは相手を懲らしめるといった生やさしい強さではない。決してそんな余裕はないのだ。ひたすら目の前の敵を撃ち殺すだけである。とは言えど、酒場でのあの行為は手に汗握る決闘、あるいは、血みどろの死闘などと呼べた代物であっただろうか?否、明らかに―と付け加えて然るべき―殺戮である。
恥ずかしながらイーストウッドが弱かった事などかつてあるのか知識が及ばぬが、やはり常に強かったのだと思う。ヒーローと殺戮者、孤高のヒーローであり続けた男はこの一線の存在に気付いてしまった。「俺はもはや強過ぎるのではないか?」。それは必然であったかもしれない。ヒーローと殺戮者、そのまま背負い続けようとすれば、一体それは何者であるか?神、であろうか?
「そんな事をしてみろ、必ず俺が殺しに戻って来るぞ!」とでも宣言するように叫びながら去る姿はほとんど怪物のよう。言葉をかける者など既になく、村人はその過ぎ去るのを家に身を潜めて見守っている。快晴の下に颯爽と駆け去る英雄談とも村人に囲まれる大団円とも無縁の畏怖を呼び覚ます神話が誕生する。蘇り、新たな神話となった怪物を祝福するかのごとき重々しい雨。
ラストのロングショットで怪物は、しかし、孤独な日常へと帰還する。暴力を極めた者がそれによってどれだけの威厳を持とうと、人里では暮らせぬ怪物に過ぎず、所詮「許されざる者」に変わりないのだろう。神になど決してなれない。「俺は人殺しだ」などとキザに吐き捨てる事すら叶わぬ怪物の孤独。業。
映画の世界広しと言えど、笑えるほど強い人物(「本当はそんなに強くない」「これは映画だ」と薄っすら分かるから、笑顔で楽しめるのだ。それが良い悪いという事ではなく)は多くとも、笑えないほど強い人物はそうそう見ない。これは暴力の後ろめたさをどれだけ背負えるかの問題であろう。つまり、暴力を振るうには暴力を知り過ぎた人物であろう。もしブルース・リーが存命していたら、やはりある時ここに辿り着いたのであろうか?
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